救急部にいた頃だ。初期研修医のA君がこう言ってきた。「僕はB科に進むことが決まっているんです。救急での研修なんて無意味です!」1)
ほう、言ってくれるねえ。面と向かってけんかを売られたようなものだが、そのけんかを買ってしまっては負けである。売り言葉に買い言葉、不毛な売買の行き着く末は不毛な結果と相場が決まっている。相手と同じテンションで自分も語尾に「!」マークを付けているようでは、同レベルに落ちると心得よ。会話のペースはこちらがつくるものだ。
さて、賢明な読者諸氏は、怒りをあらわにしたところで何の益もないことを百も承知二百も合点であろう。益はないが損は山ほどある。周囲からは感情的な人と認識され、嫌われて入局者は減り、他部署からの協力は得られず、応援者や後援者は去っていく。言いたい放題の俺様キャラが君臨できるのは、ドラマやマンガの世界のみと知るべし。
医療の現場は、所詮団体戦である。いかに味方を増やしチーム力を上げるかが重要だ。それで修羅場での勝率が上がる。周りから一緒に働きたい人と思ってもらうことで、どんなに仕事がやりやすくなることか。怒りをあらわにすることは、その妨げにしかならない。
怒ることと叱ることは違う。区別して扱わなければならない。前者は教育ではない。このことはおそらく他の執筆者も書いておられるだろう。これは後輩を指導する立場になったとき、特に注意したい。
現代の教育は褒めて伸ばすことに力点があるので、成長の過程で叱られる機会が極めて少なくなっている。皆、叱られ慣れていないのだ。阿川佐和子さん言うところの「叱られる力」2)さえ持たない人たちが、感情の塊である怒りをぶつけられれば、ひとたまりもない。心を壊してしまうこともある。医師たるものが、自らの言動で患者をつくるなどもってのほかと肝に銘ずべし。
そうはいっても、人間だもの、怒りがこみ上げることは誰だってあるだろう。そんなときには恩師1)の真似をすることにしている。研修医時代の僕は、彼のレクチャーを聞きながら目の前で寝落ちするという、激務と睡眠不足を理由にしても無礼千万としか言えない行動を繰り返したのだが、ただの一度も「怒られた」ことがない。「諭された」ことしかない。
カナダ人の師は、ミスをした相手に対してもWhyで始まる質問で追い込まないことを教えてくれた。なぜで始まる疑問文は、疑問の形をとってはいるが、明らかに相手を責めている。「なぜ○○の検査をしなかったのか?」「なぜこんな処置をしたんだ?」責めたところで起きたことはどうにもならないというのに、僕たちはしばしばこういった言い方をしてしまう。師はWhyの代わりにHow…(…はどうだろうねえ)、あるいはI would…(僕だったらこうするけど…)と語りかける。それがとても心に沁みるのだった。
言葉の選び方だけではなく、ネガティブなメッセージを伝えるときは必ず微笑みを浮かべて穏やかに、ゆっくりと諭すように発語することで、相手が受け入れやすくなることも学んだ。
実行してみると、最初はとってつけたような感じだったが、続けるうちに無理せず振舞うことができるようになった。今ではもう僕のパーソナリティの一部になっている。今回の原稿依頼をいただいたのも、その成果ではないかと思っている。
ところで、B科志望のA君にどう対応したかを最後に書いておこう。
穏やかな口調でゆっくりと僕は言った。「そうかなあ、僕はそうは思わないけどなあ」「いつかどこかの病院に赴任したら、この研修の意味が分かる日がきっと来ると思うよ」
彼と再会したのは数年後だった。彼は赴任先の当直で、交通事故の患者が次々と運ばれる場面に戦々恐々とし、あの日の僕の言葉の意味がそこでやっと分かった、と言ってくれた。
敬愛する恩師はもう亡いが、彼の真似がすっかり板についたいまでは、口調やしぐさが自然な形で自分の中に存在することに、僕は時折幸せを感じている。
アンガーマネジメントに悩む方々は、憧れの人に近づきたいと思うことから始めてみてはいかがだろうか。
■文献
1) 寺澤秀一:話すことあり, 聞くことあり─研修医当直御法度外伝. CBR, 2018.
2) 阿川佐和子:叱られる力 聞く力2. 文芸春秋, 2014.