本庶佑先生のノーベル生理学・医学賞受賞を記念して、週刊日本医事新報第4140号(2003年8月30日号)「人」欄に掲載された記事を再掲いたします。
15年前の取材記事ですが、「ゲノムとは、アドリブの入った芝居の台本のようなもの」「その仮説に生涯をかけるほどの決意があって、初めて研究という形となる」「多くの人助けをしたいと医者になった原点に戻って、治療への応用にも取り組んでいます」等々、今につながる刺激的な言葉が散りばめれられています。
夏の日、本庶さんは回想する。《蔦の絡んだ学舎に入ると、天井が高く薄暗い研究室。その建物はもうないが、現在は明るい前庭にまだ幼松といえる松の木が一本。その木はやがて左右に枝を拡げ、大樹になって木陰をつくり次世代の研究者が再び集うであろう》。
氏が研究者になろうと決心したのは、大学に入ってまだ間もない頃。柴谷篤弘著『生物学の革命』を読んで感銘を受けたことがきっかけ。早速著者を訪ねると論文を手渡されたものの、書かれていることのほとんどが理解不可能だった。そして大学三年の時、早石 修教授の講義に魅了され夏休みから医化学研究室に出入りするようになる。昼でも蚊が忍び込む窓際の一角に机を得て、「研究者の卵になったようで嬉しかった」ことを思い出す。前庭の幼松は早石教授の退官時に植えたもの。この場所は本庶さんの人生の出発点である。
「ゲノムとは、アドリブの入った芝居の台本のようなものです」。氏の口から芝居とは意外な言葉だが、「突然変異したり、生命の設計図には書かれていないことが起こるのが生物の原理だから」という例え話。
一方、インターネット上で「独創的研究とは何か」についての討論を展開。ある学者が「解決すれば絶賛される問題を、競争によって最初に実証した研究が独創的」と定義。これに対し、「まず、自分自身の疑問から問いを発し、それを検証するために、明快な仮説を提示して実験を進めることが大前提」と反論した。「その仮説に生涯をかけるほどの決意があって、初めて研究という形になる」という。
このような対話や議論を重んじ、研究成果を第三者に〝伝える〟〝表現する〟ことの大切さを常に意識している。よりよい表現に出合うために、小説や伝記、歴史を繙くことも。
「ゲノムでは六四個の単語が集まって遺伝子という文章ができ、二三章集まって一冊の本ができる」というイメージは、分子生物学者ならではのレトリックである。氏が発見したIL-4、IL-5遺伝子が、明快な仮説に基づいて実験を積み重ねた宝探しの結果見出した存在であるのと同様、書物の中に珠玉の作品や輝く言葉を発見することもある。
免疫の問題を分子生物学で明らかにできないだろうかという興味は学生の頃から抱いていた。博士課程では西塚泰美氏(前神戸大学長)らの指導を受け、米国留学時代はドナルド・ブラウン博士(カーネギー研究所)が抗体の多様性の機序の仮説を立てたことに刺激を受け、当時それを解明しようと世界でしのぎを削っていた研究者グループの渦中に飛び込んだのである。その後、日本からその研究成果を発信しようと帰国。
リンパ球B細胞は、抗原排除のために、まずIgMというクラスの抗体をつくり、その後出合った抗原の種類や血液や粘膜などその侵入場所に応じてIgE、IgAとクラスの違う抗体をつくり始める。この抗体遺伝子の仮説が、クラススイッチモデルとして一九七八年に米国学士院紀要に掲載されて、国際的評価が定まった。
遡ると、ガキ大将で遊ぶことばかり考えていた少年時代。大勢の人の役に立ちたいと考えるようになった中学の頃。「多くの人助けをしたいと医者になった原点に戻って、治療への応用にも取り組んでいます」。