阪神・淡路大震災から30年が経った。島根の医学生だったぼくは、発災時に自宅でレポートを書いていた。かなり揺れたがあれほどの惨事とは夢にも思わなかった。
神戸で被災した方にお話を聞き、興味深い点に気づいた。自宅がぺちゃんこになってしまい、命からがら逃げ出した家族だが、そのうち一人はその後、ちょっとした揺れでも恐怖を覚えるほど地震に対して敏感になってしまった。ところが、別の家族は「あのときの揺れに比べれば、この程度の地震はどうということはない」と、むしろ大抵の地震は平気になってしまったのだという。同じ現象に対して、真逆の結果が発生したのだ。
そういえば、2025年はアウシュヴィッツ収容所から収容者が解放されてから80周年の年でもある。収容者の大多数はユダヤ人であった。ユダヤ人のすべてがアウシュヴィッツ関係者ではないが、アウシュヴィッツという言葉と自分をまったく無関係にとらえるユダヤ人も皆無だろう。そのくらい、アウシュヴィッツの存在は、ユダヤ人一人ひとりのあり方に大きな影響を、今も与えて続けている。
ぼくの素朴な感覚で言えば、あれほどの大虐殺を経験した民族なのだから、大量殺戮を嫌悪し、人命を最大限尊重するに違いない、と考える。ところが、現在のイスラエルを見ていると「我々はこのような艱難辛苦の歴史を耐えてきたのだから、ガザ地区の虐殺など当然正当化できるに決まっている」と言わんばかりの無体な行動だ。アウシュヴィッツの虐殺という「経験」がもたらすものも、一様ではないのである。
ことほどさように、ぼくたちは経験を根拠に判断を行うが、その経験がシングル・アンサーをもたらしてくれない以上、経験がもたらした教訓だとか、感じ方だとかは、甚だ危く、もろく、そして根拠薄弱なものだと考えざるをえない。
医学生や研修医から、アドバイスを求められる。いわく、大学病院で研修を受けるのは正しいのか。臨床と研究、どちらに力を入れればいいのか。今は何の勉強をすべきなのか。
ぼくは自分の経験譚は語る。が、「それはあくまでもぼくの個人的な経験だから、あなたにアプライできるかどうかはさっぱりわからない。申し訳ないけれど、最後は自分で決めるしかありません」。こう申し上げている。
経験を根拠としたアドバイスは当てにならない。時代の違いもある。だから、年寄りは若者にあれこれ差し出がましいことを言うべきではない。そう考えている。
岩田健太郎(神戸大学医学研究科感染治療学分野教授)[経験][根拠]