横綱照ノ富士が引退した。相撲はガチンコ勝負のスポーツであり、大切な神事でもある。「満身創痍なのに伝統を守ってくれてありがとう」と皆が温かい拍手を送る。神事って素晴らしい。
が、医学・薬学の世界ではそうではないらしい。学会で「承認審査は神事です」と私が説明すると、なぜか司会の大御所の目が吊り上がるのだ。時には逆上して「君は自分の言ってることがわかってるのか!」と恫喝してくる(実話)。
厚生労働省職員として承認審査に携わっていた頃、講演会で同様な講義をしたら、当時の上司(元大学教授)に首根っこをつかまれて会場から引きずり出され、「そんなことを口走って許されると思ってるのか!」と怒鳴られた記憶もある(実話)。
招待したシンポジスト・講演者を恫喝する大御所の教授たちってどうよ、とは思うが、それはさておき、どうして専門家は「神事」を毛嫌いするのだろうか。
念のため、私の講演は宗教に関するものではないし、過激なアジテーションでもない。意思決定論における判断の過誤の分析、行政評価の手法や法的根拠などをわかりやすく解説してるだけ。米国FDAの講演でもよくみられる、むしろありきたりの内容である。そこに一振り、「神事」という「言葉のフレーバー」を添えただけ。
神事・儀式が社会で果たす重要な役割は、賢明な読者にはあらためて説明するまでもなかろう。儀式がメタ的な情報を与えて人々の判断を形づくることはゲーム理論ではフツーの説である1)。然るべき地位の者が新薬承認を高らかに宣言する儀式の言語行為論的な意義も明らかだ2)。自国民の健康を本気で心配するのは自国政府だけなのだから、パブリックヘルスの観点からも政府行為の正統性を保証する儀式は必須である。
医療の専門家も神事のそうした意義・役割に薄々気づいているはず。でも普段から「新薬承認は科学の土俵で行われるガチンコ勝負」といった粗雑な科学万能主義の教義が刷り込まれているものだから、チンケな学者(私)に「いや、新薬承認ってその手の単純なガチンコ勝負じゃなくて、もっと複雑ですよ」と堂々と水を差されると、引っ込みがつかなくなるのだろう。気の毒ではある。が、逆上した彼らの姿は中世の魔女狩りをしてた人たちとそっくりで、顔が怖い。
神事は科学の対極にあるものでも、科学の下位にあるものでもない。科学とは別次元の価値を持つ、大切な人類の知恵。神事とガチンコ勝負を当たり前に両立させている今のお相撲さんの熱い取組を眺めながら、あらためてそう思う。
【文献】
1)マイケル・S-Y. チウェ:儀式は何の役に立つか—ゲーム理論のレッスン. 新曜社,2003.
2)J.Lオースティン:言語と行為 いかにして言葉でものごとを行うか. 講談社学術文庫, 2019.
小野俊介(東京大学大学院薬学系研究科医薬品評価科学准教授)[医薬品][科学][神事]