社会学に「自由という概念は、責任という概念を生み出すための幻想にすぎぬ」という理屈がある。悪事を犯した人の責任を問い、刑罰を科すのであれば、前提としてその人には悪いことをする・しない自由がないといけない。つまり「自由とは責任を問うためにこじつけられた虚構」という考え方だ。
業界人の言う「薬のリスクベネフィット(R/B)」も「自由」と同じに見える。薄っぺらい合理性という説明責任を背負わされた業界人の抱く幻想。そんなもの、実は存在しないのかも。
薬のR/Bについて尋ねると、業界人は「ベネフィット=有効性、リスク=副作用」と答える。天秤を持ち出し、左の皿にはベネフィット、右の皿にはリスクという言葉を載せる。ご丁寧に天秤はベネフィットの側に少し傾いてる(笑)。
気持ちはわかる。が、人が真剣に何かを決めるとき、本当にそんな風な考え方をするだろうか。腹痛で医者に行くかをR/B項目を並べて判断する? 支持政党をR/Bで決めてる? 地球温暖化対策の是非をR/Bで考えてる? 結婚するとき、お相手のR/Bをリストにし、秤に載せましたか?
薬を承認するか・使うかは同胞の命がかかった判断である。そんな重大な判断のモデル化に、どうしてチャチな天秤をわざわざ採用するのかが私にはさっぱりわからないのだ。業界人って、チャチな天秤に載せられそうなコト(有効性、安全性、費用対効果など)だけを載せて「さぁ、良い判断をしましょう」と言うのだが、無理ですよね、それ。同胞の命がかかった判断なのだ。もっと大切でややこしいこと─たとえば自由、平等、公正、民主主義、そして愛─を我々は考えねばならないに決まってる。そうした大切なことは重量オーバーでチャチな天秤には載せられぬ。が、それを言い訳にして、それらを無視してよいわけがない。
それにしても、この手のR/B天秤の図式がどうしてこれほどまでに蔓延したのか。そこで冒頭の理屈に戻るのだ。どうも現代の業界人は「進化したサルの合理的な判断には数の大小の裏づけが必須」という妙な強迫観念に取り憑かれているのではないか。強迫観念が前提とする幻想がR/B。結果として無自覚な功利主義者が続々と誕生する。恐ろしい。
大切なことを決めるのに数の大小なんて使わなくてもよいのである。むしろ使うべきではない。コロナワクチン接種後の発熱で寝込んでいる家人を横目で見ながら、私は強くそう思う。
小野俊介(東京大学大学院薬学系研究科医薬品評価科学准教授)[有効性と副作用][説明責任][強迫観念]