health policyという分野は、素人に土足で踏み荒らされる分野だ。
現場の実践を軽視することはできないが、あまたある個別の実践から構造的な問題を抽出し、また抽象化した問いを立てる営為は、実践そのものと本来、階層が違う。学術的な議論の場や、政策的コンセンサスを得んとする場で、個別事例を延々と紹介したがる向きをときどき見かけるが、こういうときに決まって漂うふんわりとした違和感は、突き詰めると、抽象化した問いを持とうとする意思の欠如に由来する(現場に軸足を置きつつも個別の問題を抽象化して捕捉する視野を持った実践家も存在するが、例外にすぎない。多くの真面目な医療人は、目の前の問題と格闘する)。
しかし、多くの場合、そのような勤勉な実践家が一瞬もたらした場違い感はそれほど強い印象を残すことなく、ふと通り過ぎて行ってくれる。抽象化する意思を欠いた言論は、一瞬だけノイジーかもしれないが、あまり罪がない。
より実害が大きいのは、health policy(というよりもpolicy scienceというべきか)の基礎的修練を経ない者が、“専門家”としてpolicyを語ることである。あるいは、policyとしての抽象化を、本当の“health policyの専門家”およびその手続きにゆだねることなく、直に(しかも国民に向かって)語ることである。コロナはこのような“専門家”にして“health policyの非専門家”が不用意にpolicyに関わることの危なさを照射した。「1人でも感染者を少なくするために」という目標設定は、コロナにおいては大いにまかり通ったが、実はかなり例外的なものだ。
我々の社会は、交通事故を減らすために車を手放すこともないし、感染者を2000万人出す季節性インフルエンザを理由にステイホームが呼びかけられることもない。「1人でも少なく」がいつの間にか一時期の政策的基軸となったのには、いわゆる“専門家”が果たした役割が大きい。
筆者は、コロナに関する政策を感染症や統計学の専門家がリードした状況はかなり異常だったと思っている。それは当事者である専門家自身の問題でもあるが、それ許したhealth policyの側の問題でもある。科学的知見や専門知がどのようにpolicyに貢献できるのか、あるいはすべきなのかは、この際余計な先入観や利害関係を横に置いてきちんと振り返ったほうがよい。加えて、health policyで学位を授かった者としては、コロナにおける“専門家”の活躍ぶりに、鶏小屋に放たれた狐を見ているような思いを覚えたことを告白する。
しかし、である。health policyへの言論は、実は非専門家にこそ開かれるべきである。それはpolicyの実態を形づくるパワーが、正しさではなく、(究極的には)多数に由来するからである。その意味で、policyの本質は政治だ。だからこそ、正しさという決定原理に基礎を置く“専門家”が政策立案過程に関わることについては慎重に考えなければならない。そもそも多数決は科学の方法ではない。科学の徒は、多数決の世界に不用意に足を踏み入れるべきではない。
森井大一(日本医師会総合政策研究機構主席研究員)[health policy][非専門家]