自分は何事にも自らがやらずに、それについて意見するのが嫌いである。
総合診療をせずして総合診療を語りたくない。病院での勤務医、病棟での診療、ICUでの診療、大病院での外来、また中規模病院での臨床活動。また、診療所における外来、在宅医療、多職種医療介護従事者との連携、すべて実施していないと気持ちが悪い。
関わる医学の教科書も一通り、成書で読んでおきたい性分。海外の総合診療の教科書も全部目を通したい。でないと、地球上の「総合診療」の概念が理解できないし、他国の総合診療の実情がわかない。他の連携する専門診療科の教科書も読んでおかないと、連携しようとしているその科の医師の頭の中が見えない。ちなみに、私の教授室は書籍で埋め尽くされている。
教育も、医学教育の理論的バックボーンは身に付けていたいし、卒前医学教育、初期研修、専門研修、さらには大学院生の教育までの経験がないと、総合診療の教育を語りにくい。
研究についても、総合診療の研究に取り組んでいたい。そのために量的な研究、質的な研究を実施している必要がある。そして、国際的な学会などを通して、多くの世界の総合診療研究者と連携し、世界の総合診療のエビデンスを構築してこの分野に貢献したい。
さらに、米国などの総合診療先進国の臨床経験がなくて、海外の総合診療と日本のそれは違う、と批判もしたくない。一方で、海外での総合診療をただ海外であるゆえに正当化もしたくない。また、総合診療が発展段階の途上国版総合診療も現地に行って感じておきたい。よかろうと悪かろうとそれが世界共通の総合診療だから。
医学生時代、研修医時代の自分は包括性こそが総合診療と思っていた。しかし、米国の総合診療(家庭医療)研修でより広い包括性と患者中心性に開眼した。海外で熱帯医療も学び、「海外」、そして「日本」を知った。さらに三重大学の総合診療科で、地域医療資源の連携の重要さを実感した。また、決して楽ではないアカデミズムの中で総合診療の研究や教育に没頭して、この分野の奥行きを感じた。人生でいろいろな経験をして、悲哀も感じた。これは経験したいことではなかったが、確実に私の総合診療に寄与している。
たぶん、この思考回路こそが、総合診療を希求する理由なのに違いない。そして、これらを実行することを許容される自由度の大きさこそが、総合診療の魅力なのかもしれない。