人の死を色で見たことがあるだろうか。
1時間前に人の死に立ち会った。乳癌と闘い、ホルモン受容体陰性、抗癌剤も効果なく、脳転移のために最後は、意識の鮮明、不鮮明な状態を繰り返しながら自宅で家族に看取られて亡くなった。彼女は数年前に認知症で乳癌を併発したお母さんを誠心誠意看護し、さらに父親が介護状態となり、いつも付き添い、介護をしていた。彼女の病気のことは父親には伏せていたが、在宅療養の始まるときに、知らされた。亡くなる前の夜も父親は彼女の足を一晩中、さすっていたという。とても若い人の死であった。亡くなる5分前に駆けつけたが、唇の色調はピンクに近く表情も人間としての尊厳があった。亡くなる前であったが、紫色のチアノーゼの色は見つけることができなかった。
人の死を在宅では呼吸停止と心停止で行っている。色で見ることはない。しかしながら、心停止、呼吸停止は酸素飽和度に影響を及ぼし、それが色調変化として現れる。赤みかかった人が10分もすると上を向いた顔面の口唇は蒼白になり、ご遺体のベッドに触れる部分は静脈色が強くなる。これが俗に死斑と称する。さらに、顔面は暗褐色、赤銅色に変化する。生きているとき赤は強さと怒りを表し、緑は病気を、青は悲しみを示すという。
若くして亡くなったこの人は、怒りとしての赤い色で染まってほしい。あるいは悲しみとしての紫でもよい。私たちは受け入れるであろう。ただ、彼女のそばにじっとたたずんでいた父親は何色の心を持つのであろうか。緑からすみれ色への変化を望むが、できる限り、その世界を共有したい。黄色の幸せは生きていた時の恥じらいの笑顔が彼女の幸せの表情だったと、今わたくしの中で思い出がよみがえる。
コロナ感染症の死亡者は高齢者が多い。認知症、がんで死ぬのは仕方がないが、コロナ感染症では死にたくないと言っている高齢者は多いのでないかと思う。あまりにも突然の死が受け入れない理由のひとつであろう。また、家族との面会もなく死を迎えることは、黒色か灰色の世界を意味する。
人は不明朗な色が嫌いであるに違いない。しかしながら、人工呼吸器下での瞑想的な鶯色はどんな色であろうか、何色にも染まらない、安心して在宅で最後まで暮らし続けるためには、相互に信頼を保ち、幸せの黄色であってほしい。