No.5054 (2021年03月06日発行) P.65
早川 智 (日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授)
登録日: 2021-02-15
最終更新日: 2021-02-15
子供の頃、冬場はよく風邪をひいていた。回復期にあっても咳が止まらず、幼稚園を休み、綿入れを着て日当たりの良い南向きの部屋で絵本を見ている写真がある。正方形の画角から考えると、祖父が愛用のローライコードで撮ってくれたのだと思う。優しい祖父だったが熱がひどい時に注射された白色のクロマイは苦手だった。今から考えると、ウイルス性の感冒に抗菌薬は無意味である。しかし、戦前は不治の病だった結核や、幼い子供の生命を奪った疫痢、そして老人の生命を奪った肺炎がペニシリンに始まるストレプトマイシンやテトラサイクリンといった抗生物質でコントロールできるようになったことは明治27年生まれの祖父にとっては驚異だっただろう。広域性で抗菌力の強いクロロマイセチンはまさに夢の薬だった。高熱と咳嗽に苦しむ最愛の孫に最善の治療をしようという思いは十分理解できる。再生不良性貧血にならなかった幸運に感謝するしかない。大正14年生まれの父は耐性菌の研究で学位を取っただけあって、さすがにクロマイは使わなかったが、ネオレスという、たぶん抗ヒスタミン剤の注射をしてくれた。黄色っぽい注射液で筋注部位が痛かったのを覚えている。子供だった筆者が有難かったのは、祖母と母(ともに非医師)が作ってくれた冷ました番茶、林檎のすりおろしと、卵酒、鰹節と卵のおじやである。今にして思えば、水分とビタミン、消化が良くて十分なタンパク質の経口摂取という治療が一番エビデンスがありそうである。
流石に現在ではただの風邪に抗菌薬を出す先生は減ってきた。しかし我が国では、2016年に国が策定した、抗菌薬使用量減少の数値目標を掲げた「薬剤耐性(AMR)対策アクションプラン」が始まって5年になるが、未だに目標には達していない。筆者の専攻する産婦人科感染症領域では、慢性子宮内膜炎や切迫早産に対して広域性抗菌薬の長期処方が未だになされている。昨今、問題となっている新型コロナウイルス感染症に対しても、不適切な抗菌薬投与は耐性菌を誘導して二次的な細菌性肺炎の治療を困難にするのみならず、腸内細菌叢の改変によりウイルス感受性を高め、適切な免疫応答を抑制する可能性がある。もちろん、細菌感染症に対し、必要な抗菌薬を適切な時期に十分に投与することは論を俟たない。しかしながら、21世紀になってから新規抗菌薬の開発がほとんどなされていない現在、使用できる数少ない武器を有効に使ってゆきたいものである。
早川 智(日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授)[薬剤耐性対策]