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【識者の眼】「東日本大震災から10年─被災地で医療活動・地域づくりをする中で感じていること」伊東紘一

No.5055 (2021年03月13日発行) P.58

伊東紘一 (済生会陸前高田診療所長)

登録日: 2021-03-02

最終更新日: 2021-03-11

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また3月11日が来る。2021年になり満10年が経過したが、東日本大震災と海嘯(ツナミ)による多くの犠牲者は帰ってこない。此処、診療所のある岩手県陸前高田市気仙町では、11回忌を迎えるにあたり、各地域の旧町(部落)ごとに仲町、鉄砲町、中井部落等それぞれの遺族が自分たち自身で犠牲者の慰霊碑を建ている。

私たち夫婦も被災直後にこの地に入り、犠牲者の半数以上の遺体に接し、この地に残された被災者たちのお役に立とうとの思いから、気仙町中井部落での診療を開始し5年が経過した。陸前高田市だけでなく大船渡市や住田町からも患者が来る。当診療所のカルテは9200名を超えている。家族が海嘯(ツナミ)の犠牲になり、生き残った人たちの心の「きず」は10年が過ぎても癒されることはないのである。海嘯(ツナミ)の後の5年間じっと「気持ち」をしまい込んで、他人に語ることが無かった人たちの心の叫びを聞くことが、診療を開始した私たち夫婦の役割であった。診療所の待合室には、海嘯(ツナミ)の犠牲者の家族或いは自身が九死に一生を得た人たち、多くの死を目撃した人たち等々が集まって来て、私たちに語り始めたのであった。この人たちは5年間沈黙を続けていたのであった。本当の犠牲者たちは悲しみに暮れ、沈黙を守っていたのである。被災直後にマスコミに多くの事を雄弁に語った人たちは、次第に沈黙していったのである。診療開始から5年間が過ぎ、大震災から10年を迎えようとしている今になって、やっと心を開いて語り始める人もいるのである。10年という時の流れにも癒されない人たちが多く居ることを知っていただきたいと思う。

無情海嘯襲淸濱 倏忽流亡岳母身 

内弟亦追慈嬭後 只今再會在河津 

(海嘯過 壽峰)

無情の海嘯淸濱(かいしょうせいひん)を襲い  倏忽(しゅくこつ)流亡す岳母の身

内弟も亦慈嬭(じだい)の後を追う 只今再會して河津(かしん)に在らん

医療活動は、私が総合診療医として内科のみならず小外科・整形内科的なことにも対応している。先ずはどんな患者でも診るということである。済生会は山形済生会や関東の済生会の整形外科の先生方が応援してくれている。自治医大卒業医師たちも応援に来てくれている。神奈川や埼玉の昔からの友人も診療応援に来る。そのような中で、実に興味深い多くの症例に遭遇した。被災地というだけでなく、元々が医療に恵まれない(量的だけでなく質的にも)地域であることから、大震災以前から十分な医療を受けられていない人たちがいた。もちろん私たちの力量が十分とは言えないが、この地域である程度のお役に立てているのではないかと考えている。

大震災・海嘯(ツナミ)により消滅した地域への住民の回帰が望まれているが、震災に驚愕した政治家や行政マンが地域の住民の意見を聞く前に、嵩上げを至上命題として政策を行った為に、復興活動の停滞を招いてしまった。最近の報道でも、復興活動の停滞は政策の誤りであることが報じられている。国民の税金を使って行われた膨大な嵩上げ地は見渡す限りの広大な「利用されない原野」として残されている。巨大な防潮堤は無味乾燥なコンクリートの壁となり、人や動物や植物の息吹の無い構造物として聳え立っている。あまつさえ防潮堤の為に海産物の習性や発育が障害されているという。海のみならず川の生物の回帰も滞っている現実がある。

そして、コロナ禍による人々の精神的荒廃が追い打ちをかけ、困難に立ち向かっている被災者への偏見や差別が起きている。日本人は、こんな人たちではなかったという人たちもいるが、あの10年前の大震災の時の人々の行動には失望するようなことが多かったということも知ったのである。大震災によって日本人が変わったのではなく、元々持っていた悪い面が全面に出てきたのであろうと思う。人心の乱れは、政治と行政に携わる人たちを変えていかなければならない兆候ではないかと思うこの頃である。

伊東紘一(済生会陸前高田診療所長)[東日本大震災]

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