No.5105 (2022年02月26日発行) P.60
堀 有伸 (ほりメンタルクリニック院長)
登録日: 2022-02-01
最終更新日: 2022-02-01
埼玉県で訪問診療に熱心に取り組んでいた医師が、治療に不満を持った患者の家族によって殺されるという痛ましい事件が起きました。熱心に診療に取り組む評判の良い先生だったと伝えられています。
「あんなに優しい先生がなぜ?」という疑問が湧くかもしれませんが、心理療法について学べば、「優しい先生ほど危険な関係性に巻き込まれる危険性が高い」ということがわかります。精神分析的な治療者は、情緒的な交流が生じると、“転移”という現象が起きることを認識しています。一般的に人は、過去の重要な人物との間で体験した情緒的な関係性が、今度の新しい人間関係でも反復されることを知らず知らずのうちに期待してしまうのです。迫害された経験のある人は、自分は「また」迫害されていると感じやすくなっています。そうすると、今度は迫害されないように、新しく関係性ができた人のことを攻撃してしまうかもしれません。
そもそも他人との情緒的な交流に心を閉ざしている人は、このような転移に巻き込まれる危険性は低いのです。相手の攻撃性でも受け止めてくれる優しい人が、「この人なら私の中に貯まっていた攻撃性も受け止めてくれるかもしれない」という理不尽な無意識的な理由で、強い攻撃性の的になってしまうことがありえます。
心理療法の場合ですと、難しい転移が生じることが予想される場合には、治療の場所や時間を制限するような契約上の工夫をしたり、複数の治療者が関わるようにしたり、状況によっては入院した上で心の深い部分への介入を行うような準備をします。治療の「枠」という言葉を使うのですが、強い攻撃性を扱うことが予想される場合には、枠は強くしておきたいところです。
「訪問」のような治療側でコントロールができない要因が多い状況は、「枠」が緩く、難しい感情の転移が起きやすく、難易度が高いと考えます。今回のような事件で、治療者側の警戒心が過度に強まって介入のあり方が委縮することは避けられるべきです。しかし、「訪問」の良い点ばかりを無条件に強調するだけではなく、治療を提供する側にとっても受ける側にとっても、安全で効果的な「枠」をどのように設定するのか、という観点からの議論が行われてもよいだろうと考えます。
堀 有伸(ほりメンタルクリニック院長)[訪問診療][感情の転移]