(質問者:熊本県 Y)
佐藤藤佐が生まれ育ったのは出羽国遊佐荘升川村(山形県飽海郡遊佐町),鳥海山の西南麓の農村です。佐藤家の祖先は源義経の功臣佐藤繼信より出たと言われ,代々貢租を免除された名家で,所有する田畑も広大な資産家でした1)。
藤佐は幼少期の名を藤助といい,生まれつき腕白で大胆,しかも才気煥発な少年です。『酒田聞人録』2)によると,幼い頃に父を亡くし,伯父が後見人として財産管理をしていました。伯父は藤助が16歳に達したときに財産すべてを相続させると約束したのですが,藤助がその年齢に達した頃,約束に反して,伯父は財産を横奪する挙に出ました。これを咎めた藤助と伯父との間に激しい争いが起こり,ついに藤助は代官所に訴え出て勝訴を得ました。
地元では悪たれ藤助と言われ,このままでははぐれ者になるのではと恐れた母は,25両の大金を与えて江戸へ送り出します。藤助も親戚同士の醜い財産争いに嫌気がさしていたと思われます。20歳で江戸へ出ると,旗本の伊奈遠江守(あるいは柳生但馬守2))の用人に雇われ,佐藤藤佐と名乗りました。
その後,藤佐は多くの旗本の家に出入りし,彼らの財政を立て直し,さらに弁舌の巧みさと度胸を発揮して多くの訴訟を勝ち取り,公事師として評判を得ます。
公事師とは江戸時代に他人の訴訟の代行や調整を業とした者で,代言人や出入師とも言われました。現在の弁護士の源流に相当しますが,幕府は正式な職業として認めず,黙認するにとどめました。他人の古証文を安く買い取って訴訟を起こすような悪徳業者がいたからです。
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