【Q】
京都市内の町名の中で,中京区堺町や道祐町という町名があります。この町名は「寛永十四年洛中絵図」に堺町通り道祐町という表記があり,それ以前に久野道祐という医師が住んでいたことに由来すると言われています。この医師について知りたいと思います。 (京都府 K)
【A】
久野道祐は実在したと思います。しかし,残念ながら歴史書に「久野道祐」は記載されておらず,生没年は未詳です。
定説となっているのは,久野道祐は信長・秀吉時代に,京都三条に住んでいた医師であり,町の名はその医師の名から「道祐町」と呼ばれ,604-8118の郵便番号を付されて今日に至っているというものです。
都の古い町の呼称は,各種屏風(文献1)や古地図,町の住居簿である「坊目誌」などで確認できます。「寛永十四年洛中絵図」(1637年)は,江戸時代初期に描かれた都の地図です。原図では通り・町の名称記載が解読困難ですが,堺町通りには道祐町の3文字が読めます。
そもそも,都は9世紀平安時代以来,碁盤の目に区画されていて基本単位は「町」です。当時の「道祐町」周辺は,東西に三条大路,南北に高倉小路,万里小路,富小路が走り,東の突き当たりが京極大路という呼称でした。ところが,16世紀後半,室町戦国時代の終盤に織田信長が入京(1568年)して楽市楽座を実施しますが,本能寺に斃れます。その信長を引き継いで豊臣秀吉が天下統一,天正10(1582)年に太閤検地が始まり,都を大改革します。南北の大路小路の所々にもう一筋,通りを入れました。高倉小路と万里小路の2筋は,高倉通,堺町通,柳馬場通の3通りになり,通りに町名を付けました(図1)。それが「三条通下ル堺町通道祐町」です。
しかし,この地図のみでは医師道祐の解明にはほど遠いため,京の地名の謂われが詳細に記された明治期刊行の資料をみます。「京都坊目誌下京第四学区之部」(文献2)に,道祐町の項目があります。「堺町三条下るより六角上るまでを云ふ 天正年中開通する所也。町名起源 中世久野道祐と呼ぶ医師之に住す。道祐ノ事蹟不レ明 故に町名とす」という由来が記されています。これが,町名ではない医師道祐の初出です。項目には,堺町通と高倉通は「応仁以来荒廃し,天正統一の際,再開する所也」と加筆されていますので,道祐の居住時期を中世と記したのは,近世江戸以前で信長・秀吉の統治時代からという意味合いでしょう。「堺町」の命名からしても「高倉通迄人家ありてそれより東は(鴨川まで)原にてありしゆへ原と町との堺なるゆえ號す」と補足しています。確かに人家があってこその医者稼業ですし,慶長12(1607)年には浄土真宗本願寺派の光浄寺が順超僧侶によって開基され,町の様相も整い,賑わってきます。医師久野道祐と僧順超,2人は近世のとば口,新生京の都に希望を見出し,新しい町づくりに奔走した新住民だったのかもしれません。なお,光浄寺は400年経った現在も変わらず同地のお寺様であり,道祐邸(推定)跡は現在のイノダコーヒ店あたりと想定されます。
ところで,質問の久野道祐の事蹟が未解決です。手がかりとして『京都の医学史』には平安時代以来の医師名簿が折々に記載されています。久野姓の医師は江戸中期後期に記載されていました(文献3)。正徳2(1712)年刊行「良医名鑑」に久野玄東,文化8(1811)年「京羽二重」に久野玄暠,天保14(18
43)年「天保医鑑」および文久3(1863)年「京羽津根」に久野玄恭,「天保医鑑」に久野玄泰,万延元(1860)年「洛医人名録」に久野一郎が京の名医として名を列ねています。
この5氏は父子と一族でいずれも小児科の医師であり,居住地は堺町三条南(下ル)です。これらの名簿は現役の医師名と所在地のみを記載する会員名簿ですから,久野氏の出自までは言及されていません。
○
信長・秀吉の時代に新しい町の住人となり,わが名が町名となった久野道祐は,三条通下ル堺町通道祐町で医師を稼業として過ごし,その一族はほぼ江戸時代を通して小児科医であり,近代明治期に及んだと言えます。明治3(1870)年に没した御典医久玄恭(雪湖)の墓所・南禅寺天授庵の墓誌(文献4)に「久野家累世侍醫 小児科を専とす」と刻まれ(文献5),その後半に久野家の祖として道祐が織田信長の許諾のもとに当地で医師開業したと明記され,その医師の名前が町名の謂われだと記しています。2016年,現在も久野家が京都の地で医家の地歩をしっかりと築いていることをお伝えしておきたいと思います。
【文献】
1) 大塚 隆, 編:慶長・昭和京都地図集成. 柏書房, 1994, p18, 4-D.
2) 野間光辰, 他, 編:新修京都叢書 第20巻. 臨川書店, 1995, p102, p108.
3) 京都府医師会, 編:京都の医学史. 思文閣, 1980, p1339, p1362, p1373, p1382.
4) 寺田貞次:京都名家墳墓録. 村田書店, 1976, p415.
5) 南禅寺天授庵久野家墓誌 2016年2月現在. 久野家門人照井哲造撰, 1906年.