私が緩和ケアの研修医だった15年ほど前、緩和ケア病棟には1年以上入院を続けている方は珍しくなかった。大正琴が得意だったある高齢の女性は、病棟のイベントのたびに着物に袖を通しその腕前を披露し続けてくれた。バードウォッチングが趣味だった男性は、病棟裏手の山に来る鳥たちを毎日のように観察し、その成果を病棟内に設けられたバーで、主治医にお酒を注いでもらいながら語っていた。
しかし、診療報酬の体系が変わり、緩和ケア病棟にも入院期間によって報酬が逓減するシステムが導入されてから、そういった患者さんは病棟にいられなくなってしまった。ある患者さんは、「いろんな苦しい治療を乗り越えて、たくさん傷ついて、ここの緩和ケア病棟にたどり着いて。ようやく、ゆっくり休めると思ったのに入院当日から退院に向けた話をされるとは思わなかった」と嘆いていた。
全国の緩和ケア病棟には、いまだに「終の棲家」としての機能を維持しているところもある。しかし、特に総合病院に付属しているような場合は、昔のような姿に戻ることは難しくなっていることが多いのではないだろうか。その結果として、患者さんたちが「医療の文脈に沿った人生」を歩まされているのではないかという懸念を抱いている。近年、在宅医療の発展や民間ホスピスと呼ばれる施設の登場によって、選択肢の幅は広がってはいる。しかし一方で、診療報酬体系によって患者さんたちがその選択肢を「選ばされている」のだとしたら。少なくとも自身が病気になったときに、そんな社会で生きることは嫌だと感じてしまう。在宅で最期を迎えたい、という気持ちがあるときに在宅を選べ、やっぱり緩和ケア病棟で最期を、と望んだ時にはその通りに生きられる自由が、誰にも保証されていることが真に豊かな緩和ケアの社会と言えるのではないだろうか。
患者さんに必要なのは、高度な医療や設備ではない。生き方を理不尽に曲げられない自由と、それが保証される安心が提供され続けることこそが、ケアの基礎なのだと思う。「終の棲家」としての緩和ケア病棟は、もう二度と戻ってこない過去だけれども、その制約の中で患者さんの自由と安心をどれだけ保証できるかが、これからの緩和ケアの腕の見せ所であろう。
西 智弘(川崎市立井田病院腫瘍内科/緩和ケア内科)[診療報酬の逓減制][生き方の選択の保証]