医療現場の諸先生方も薄々感じておられるとおり、日本の医薬品規制は欧米の後追い・真似事である。が、ときにその真似事すらうまくいかぬことがある。産官学の専門家が英語をテキトーに(「適当」ではない)翻訳した結果、とてつもない惨劇、いや笑劇が起きる。
薬の市販後安全性監視の国際ガイドラインに「safety specification」という言葉がある。「specification」は難しい語だが、薬の世界ではまずは「規格」「仕様」を指す。企業が自ら宣言した、製品の安全性の「仕様」である。「うちの製品はこのくらいのリスクがあるよ。それを承知でご購入を」という宣言でもある。むろん宣言者には宣言に伴う責任が生じるし、宣言を受け容れ、承認した厚生労働省も責任を負う。そういうこと。
が、20年ほど前の専門家は「safety specification」を「安全性検討事項」と訳してしまった。「仕様」のニュアンスなどどこにもない。検討「すべき・する・した」の区別もないし、誰かに検討「される」といった無責任な解釈すら成り立つ。企業・当局が、薬のリスクをあるレベルに設定・決定した責任を曖昧にした、ひどい翻訳である。
こうした責任逃れは、薬害で批判される厚労省・企業の生活の知恵ではある。が、無責任な翻訳は時代・世代を超えて社会を危険に曝すことを忘れてはならない。最近、若手業界人が「safety specificationを発見しよう」などと意味不明なことを平然と言ってるのを目にし、唖然。ベテラン業界人も「日本で昔から使われてた言葉を転用して何がいけないの?」くらいの感覚らしい。いや、根本的にダメだろ、それ。
実は、欧米の規制に関する英語がテキトーに翻訳され、日本に大損害が生じた前例はたくさんある。たとえば治験の「essential document」。「必須文書」と訳されたせいで、要らない文書を保存用にわざわざ印刷するという笑劇の事態が生じた(ホントです)。
「expedited review」を「迅速審査」と訳したため、「審査を急いで質が落ちたらどうする?」という身も蓋もない正論が蔓延したこともあったっけ。あーあ。(適切な訳語は各自お考え下さい。)
今の日本の医療業界人の言語能力の低下、マジで恐ろしい。自覚がないのが恐ろしい。どうせ米国人の猿真似をするしか能がないのなら、せめてきちんと・徹底的に猿真似すればいいのに……。
小野俊介(東京大学大学院薬学系研究科医薬品評価科学准教授)[safety specification][翻訳力]