ESGって何の略かわかりますか? STSは? 注1
理系・文系を問わず学問領域は日々細分化。それに伴い、特定の概念を表す言葉がそれぞれの領域で徐々に変容し、ニュアンスが変わってしまうことがある。学問領域ごとに「方言」が広がるのは概念の進化なのだろうか? それとも劣化なのだろうか?
医薬品の世界にも方言がたくさんある。
たとえば「リスク」。リスク関連諸科学では元来、それは不確実性のレベルを表す概念だったはず。よいことにも悪いことにも不確実性は伴うから、「宝くじはリスク」は教科書でよく見かける表現である。が、医薬品領域では、リスクをなぜか副作用などの悪い帰結にだけ結びつける慣習がある。それってフツーに考えても変である。薬の最大のリスクは「薬が効かないこと」に決まってるのだが、業界人はなぜかそれをリスクとは決して呼ばない。心にやましいことでもあるのだろうか。
恐ろしいことに、業界人はそのリスク(とやら)とベネフィットを天秤に載せて重さを比べてしまう。業界人の流儀に従えば天秤は微動だにしない(だって両側に無限に重いヒトの命を載せてるのだから)はずなのに、なぜかベネフィットの側に傾くのだ。その天秤、確実に壊れてますよ。
薬効評価の世界で最近流行している方言に「帰納」と「演繹」がある。業界人への解説で、「臨床試験において仮説から現実の患者の結果を予想することを演繹と呼びます」「薬効評価は演繹と帰納の繰り返し」といった奇妙な説明をしばしば目にする。
換骨奪胎の意気込みは理解する。が、科学哲学のの一部分を無造作に切り取ったそうした説明は、いくらなんでも端折りすぎである。21世紀の医薬品業界でこれほどに雑な説明が蔓延していることを泉下のカール・ポパー先生注2が知ったら、鼻から牛乳を吹き出すのではないか。
「だから医薬品の専門家はリスク関連科学や科学哲学をきちんと勉強すべきなのだ!」などという正論を吐くつもりはない。現在の学問世界はあまりに拡大し、同時に細分化してるので、あれもこれも知っておくなんて無理である。
しかし、数千年にわたって人類を悩ませ続けてきた、人類の知恵のど真ん中にある諸概念(「リスク」「帰納」「演繹」はむろんそこに含まれる)を蔑ろにするのはさすがにまずいのではなかろうか。
「医学・薬学は人の命を救う実学なのだから、そんな屁理屈とは無縁でかまわないのだ」とは私はまったく思わない。人の命を扱う実学だからこそ、人類の知恵が濃縮した「言葉」たちに然るべき敬意を払うべきであろう。
注1 ESG:Environment, Social, and Governance。経済学・ビジネス論などの領域の1つ。
STS:Science, Technology, and Society。科学哲学・科学技術論などの領域の1つ。
注2 科学哲学の世界では長嶋茂雄並みに有名な大先生(1902-94)。
小野俊介(東京大学大学院薬学系研究科医薬品評価科学准教授)[医薬品][ESG][STS]