2007年に愛知県大府市の共和駅構内で起こった認知症の人の死亡事故に対して、JR側から起こされた訴訟の最高裁の判決が出た。JR側の主張を全面的に認めた一審の判決が逆転して、遺族側の責任を問わないというものである。
この問題について私は一審の結果(JR側の勝訴)が出たときから、どちらかが勝った負けたで決着をつけるものではないと考えていた。どちらが勝ってもその結果が社会に大きな混乱を招くことは必至である。それが判っていて、なお白黒をつけなければならないということに、閉塞感を感じていたが、あえて白黒をつけろということであれば、これしかないという意味で妥当な判決である。
高齢化の進展によって平均寿命が延び、認知症の人の急速な増加に、それまで水面下にあった問題が社会問題化してきた。社会も医学界も、年をとればやむを得ないと放置されてきたことが一挙に表面化してきたのである。人権意識の高まりと、高齢者夫婦世帯から独居へという居住形態への変化もあり、誰にも起こりうるという不安感が急速に拡がってきた。今では、認知症は超高齢社会における象徴的な問題である。
こうした社会背景のなかで、増え続ける認知症に国や社会はどう対応してゆくのか。「たとえ認知症となっても住み慣れたところで人らしく最期まで生活することのできる社会」を目指す、これが合言葉である。認知症の人は、社会生活を送るうえで必要な基本認識を欠くため、自分が否定されたり束縛をされたりすると、病状が悪化する。従って、できるだけ自由に本人の希望を満たすように見守ることが、病状を安定させ進行を防止する。
このような状況のなかで、認知症の人の人権が尊重され、安全・安心に生きてゆくことができる社会とはどうあるべきか。事故は絶対に許さないとするなら虐待といわれても束縛は避けられない。限界とリスクを認めたうえで、人らしく生きることを優先させれば、事故は覚悟しなければならない。
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