No.5127 (2022年07月30日発行) P.63
中村安秀 (公益社団法人日本WHO協会理事長)
登録日: 2022-07-07
最終更新日: 2022-07-07
真珠湾攻撃のあと、第二次世界大戦中に日本政府は2種類の健康手帳を作成した。
1つは、1938年にできたばかりの厚生省の瀬木三雄医師がナチスドイツのハンブルク大学産婦人科教室において見聞した妊婦健康記録自己携行システムを参考にした「妊産婦手帳」であった。妊産婦や新生児の健康状態、分娩日時や体重、分娩異常の有無などを書く欄があり、表紙も含めて14ページの薄い冊子であった。米や出産用の脱脂綿、砂糖などが特別配給されたので、「必要記事」の欄が配給手帳のように活用された。もちろん、軍事色が色濃く反映され、「妊産婦の心得」には「立派ナ子ヲ生ミオ國ニツクシマセウ」と書かれていた。
もう1つは「體力手帳」(以下、体力手帳)である。1942年に国民体力法により44ページという大部の「体力手帳」が交付された。乳幼児には体力検査および保健指導が実施され、種痘などの予防接種記録が携帯されるはずであった。「この手帳は本人または保護者において男子にありては満26歳、女子にありては満20歳に達するまで大切に保存する義務がありますが、その後も一生の健康履歴簿として大切に保全してください」と謳いあげたものの、戦局激化に伴い保健指導する余裕もなくなり、1944年以降は手帳の交付さえできなかった地域が多かった。手帳の中の「本人・保護者ノ心得」の冒頭に、「此ノ手帳ハ國家ガ国民ノ體力ヲ管理シテ立派ナ皇國民トスル為交付スルモノデアリマス」と書かれている。まさに、立派な皇国民をつくるために特化した手帳であった。
第二次世界大戦後、劣悪な衛生環境、妊産婦や乳幼児の栄養不足という厳しい状況のもと、世界で最初の「母子手帳」がつくられた。妊娠・出産・子どもの健康の記録が一冊にまとめられていること、そして保護者が家庭で保管できる形態であること。この2つの特徴を兼ね備えた母子手帳こそが、日本発のシステムである。当時の県の保健師は、「小型できれいなこの母子手帳が、お母さんの妊娠中から、子どもが小学校に行くまで母と子の健康を守るために活用されます」と誇らしげに語っていた。
やはり民主主義っていいなと痛感した。戦後のヒトもモノもお金もなかった時代に、連合軍総司令部(GHQ)を説得しながら、世界で最初の母子手帳を「発明」した先達の心意気を忘れないでいたい。
中村安秀(公益社団法人日本WHO協会理事長)[妊産婦手帳][体力手帳]