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坪井信道(7)[連載小説「群星光芒」185]

No.4772 (2015年10月10日発行) P.66

篠田達明

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-02-10

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  • 玄関脇の小部屋に運び込まれた信道をみて師の宇田川玄真はいたく同情した。

    「信道はわしが若いときに悩まされた貧苦の身とそっくりじゃ」

    当初は渋った玄真夫人も内弟子を許したから、信道は水を得た魚のように学問に傾注することができた。塾には蘭語辞書の『長崎ハルマ』が1冊あった。信道は塾生に頼まれて『長崎ハルマ』の写本作りに精を出し、3度筆耕して学資の助けを得た。

    文政6(1823)年、信道は29歳の春を迎えた。すでに高齢の玄真に代わって塾生に蘭学を教授するほどの実力をつけていた。訥々とした話ぶりや、いつも患者のことを思い、はったりや向こう受けを狙うことなどない信道に塾生たちの信頼は厚かった。

    信道にも他者を批判し、あげつらう性分が隠れてはいたが、それは親友だった岡 研介のみに向けられたのであって、宇田川塾ではひたすら慎みと反省を課して黙々と修業にはげんだ。

    その日、信道は玄真から書斎に呼ばれた。師は1冊の分厚い蘭書を取り出していった。

    「この書はオランダのライデン大学教授ヘルマン・ブールハーヴェが門下に伝えた『Aphorismi(医師が守るべき箴言集)』である。ここには臨床医のための論語ともいうべき医の精神が詰まっている。西洋では広く読まれておるが、本邦にも広めたい。ついてはおまえが翻訳してはどうか」

    信道は奮い立った。この仕事をぜひとも引き受けたい。

    ――だが翻訳には優に3年は掛かるだろう。ならば兄にどう言い訳すればよいのか?

    その頃浄界は生駒山中の慈光寺を出て河内国(大阪府)葛城山の麓にある高貴寺で修行をしていた。信道は師の許しを得て文政6年の秋に高貴寺を訪ねた。

    頑なで一本気の兄に「さらに修業年限を延ばしてほしい」とはどうしても言い辛い。やむなく高貴寺の住職智憧に頼んでその場に立ち会ってもらった。

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