ヘビと聞けばぎょっとするが、愛好家でペットにしている人さえいる。ヘビは漢方の薬にもなる。子どもの頃、いつも朝市にマムシ屋がいた。商品はマムシを乾燥して粉にひいた赤い箱の薬だった。少し前の人気テレビドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」で、温泉旅館で可愛い主人公にあわや見つかりそうになったのは「とぐろターボ」なるマムシドリンクだった。滋養強壮と強精の薬として、マムシの確固たるイメージが世間一般には知れ渡っている。
医学界のヘビ愛もただならぬものがある。世界医師会や日本医師会のロゴになっているし、世界保健機関(WHO)では杖に巻きついている。ギリシャ神話、医神アスクレピオスは病む人を癒し、死者をも蘇らせた。使われたのは、メドゥーサの血だった。この怪物の髪の毛が無数のヘビなのだ。ヘビは医術の具現化であり、西洋のみならず世界の医学のシンボルとなった。医学の父、ヒポクラテスはエーゲ海コス島の伝統医術の系譜にあり、医神の神話にもつながっているそうだ。医師の職業倫理を誓った「ヒポクラテスの誓い」は、西洋医学の精神になり、めぐりめぐって、日本にも伝えられた。長崎で医学を教えたポンペ先生は、「医師は自分自身のものではなく、病める人のものである」との有名な言葉を残した。「医は仁術」の精神がある通り、その献身的精神は日本の医師たちにも刻み込まれてきたと感じる。
従来からの過労死問題および働き方改革の波があり、昼夜を問わず献身的に働く医師の健康を守るため、働き方改革の議論が始まったのは必然だった。この際、整理すべき課題の1つに、患者の求めがあれば、これに応じなくてはならない、いわゆる医師法に定められた応招義務があげられた。古い法律なので、条文を見る限り医師の労働時間は顧みられていない。これに対して、厚生労働省医政局は、2019年、「私法上の義務」ではない、とする公式見解を公表した。日本医師会の倫理綱領の注釈にも、「公法上の義務」と書き加えられた。つまり、応招義務は医師に課された倫理規定のようなもの、ということなのだろう。2024年4月から改正医療法に基づく医師の働き方改革が施行される。労働時間を規定する法律に職種の例外ができるという点で画期的だ。医師の適切な労務管理が医療機関の義務となる。医師の献身的行動に対して、医療機関が労務管理の手綱を締める構図となった。
医師がどれほど多様化していても、はるか昔の神話の時代から脈々と培われた医師の良心が失われているわけではない。長時間労働を厭わず医師が地域医療に貢献しているのは間違いない。長時間労働の余り、医師が病に倒れたり過労死したりすることが毎年のように起こっている。問題の背景には、医師不足、地域の医療体制の歪み、わが国の医療システムと受療行動の問題、等々、多くの外的要因と医療界自身の内的要因が多面多層的に要因となっている。
ヘビとヒポクラテスたちだけでは解決は難しい。はやりの言葉で言えば、持続可能な医療システムが重要だ。現実的にバランスよく、かつ柔軟に知的に対応する力が私たちの社会全体に試されている。
黒澤 一(東北大学環境・安全推進センター教授)[応招義務][医師の労務管理]