筆者の「識者の眼」への執筆は本稿が最後になる。パソコンで検索してみると、2021年から執筆をしていた。はじめは1年間というお約束で書き始めた本連載であるが、なんと4年間も執筆をしてしまった。そんなに書いていたのか、と自分でも驚いているところである。本連載に執筆することで、少しでも読者の参考になり、また、読者の考え方が変わったところがあれば、うれしいことである。
しかし、「識者の眼」というのはどういうものを言うのであろうか。私は決して物を読むほうでも、知識があるわけでもなく、感覚にしたがって生きているような人間で、はたして、本連載にふさわしい人物であったかどうかは甚だ疑問である。
人間の人生はそれぞれ大きく異なっていると思う。職種など、それぞれの好みもあるだろうが、それだけではなく、ことにあたっての「どうすべきか」「何が正しい道か」というそれぞれの判断というものが大きく異なり、それにより人生は異なった方向へと続いていくことがあるように思う。恐ろしいことに、まるで岐道のように、岐れた直後にはその距離は大して遠くはないが、時間が経つにつれ、その道を進むにつれ、別の道とは大きく離れていき、修正をするには多大な時間と労力を要するようなことがあるように思う。診療をしていても、「あの時ああしていれば……」というような事象の経験は臨床医ならば誰でもあるのではないだろうか。
その最たる例と思われるのが、社会の規範と教育のように思う。社会の規範の例として「男女共同参画」は大きな例である。日本がなぜ失われた30年になってしまったのか、いまだに男女共同参画の遅れがその原因の1つであることを理解していない国民も多い。頭脳も労働力も半分で戦おうとしてもそれは無理な話である。
そして、取り返すのが難しいのが教育である。教育は受け手にはその年齢や発達段階、習得段階においてすべき教育があり、間違った方向に行ってしまうとこれを修正することは至難の業である。
では、識者には何が期待されるかというと「将来を見通す眼」であろう。どの道を進むとどのような結果が待っており、どの道を進むべきなのか、これを予想できる能力のある者が識者なのではないだろうか。識者になるためには、希望に満ちた前向きな考え方と同時に、おそらく、経験に対する素直な反省と集積も必要なのではないかと思われる。こう考えると、識者には程遠い私が本連載を執筆させて頂いたことは笑止である。ぜひ、これからは本当の識者の先生方に導いてもらえたら、と思う。
野村幸世(星薬科大学医療薬学教授)[将来を見通す眼][反省と集積]