夏目漱石の作品には、精神医学的にみれば幻聴や妄想と思われるような表現が数多く認められるが、本論では、『吾輩は猫である』と『野分』という初期の作品から、漱石の自らの病に対する病識を検討する。
漱石が1905(明治38)年に発表した『吾輩は猫である』には、様々な幻覚や妄想を思わせる場面があるが、その代表的なものは、主人公・苦沙弥の耳に、近隣の住民が自分をからかう声が聞こえてくるという、第3章の次の場面である。「するとまた垣根のそばで三、四人が『ワハハハハハ』と言う声がする。一人が『高慢ちきな唐変木だ』と言うと一人が『もっと大きな家へ這入りてえだろう』と言う。(中略)主人は大いに逆鱗の体で突然起ってステッキを持って、往来へ飛び出す。(中略)吾輩は主人のあとを付けて垣の崩れから往来へ出て見たら、真中に主人が手持ち無沙汰にステッキを突いて立っている。人通りは一人もない、ちょっと狐に抓まれた体である」。
この場面に描かれているのは、自宅で友人と歓談していた苦沙弥の耳に、近所の連中が自分を馬鹿にする声が聞こえてくるものの、声がした場所に行ってみると誰もいないという、いかにも幻聴を思わせる体験である。
これは、臨床的にも正確な幻聴の表現であるが、ここで注目されるのは、『猫』ではこの出来事はあくまでも現実の出来事として描かれていることである。
たとえば、『猫』の中には、近隣の住民同士の会話として、「何でも大勢であいつの垣根の傍へ行って悪口を散々いってやるんだね」、「しかしこっちの姿を見せちゃあ面白くねえから、声だけ聞かして、勉強の邪魔をした上に、出来るだけじらしてやれって、さっき奥様が言い付けておいでなすったぜ」とあるように、苦沙弥に対するからかいは実際に近隣住民によって行われた行為として描かれている。しかも、近隣住民による嫌がらせは、「奥様が言い付けておいでなすった」とあるように、実業家の金田の指示でなされているのであって、ここには、組織的・集団的な迫害が黒幕的な人物の指示の下で行われるという、被害妄想的な特徴が顕著である。
さらに、その黒幕的な存在とされる金田自身も、苦沙弥のことを、「生意気な奴だ、ちと懲らしめのためにいじめてやろう」と思って、「いろいろ手を易え品を易えてやって見るんだがね。とうとうしまいに学校の生徒にやらした」と、近隣住民や中学生を使って嫌がらせをしたことを認めているのだから、漱石がこの場面を、幻聴の表現としてではなく、あくまでも現実に起こった出来事として描いていることは明らかである。
すなわち、精神医学的に見れば幻聴的な特徴が顕著な苦沙弥の体験を、漱石は正に現実の出来事として描いているのであって、それは、とりも直さず、漱石が、このような体験を現実そのものとして認識していたことを示唆するものである。そして、苦沙弥と近隣住民の関係に似た関係が、『猫』を書いた当時の漱石と千駄木住民との間にも成立していた―漱石は千駄木の住民を対象とした幻聴や妄想に悩まされていた―という鏡子夫人の『漱石の思ひ出』(改造社刊)の記述をみるならば、『猫』執筆時点での漱石は、自らの幻聴や妄想を現実そのものと信じていた、つまりは自らの病に対する病識がなかったとみることができるのである。
漱石が1906(明治39)年12月に書いた『野分』は、かつて中学の英語教師をしていた白井道也を主人公とする作品である。道也は、大学卒業後、3度田舎の中学に勤めたものの3度とも辞職してしまうという、『坊っちゃん』の後身を思わせるような人物である。特に、最初に勤めた越後の中学では、金力と品性は一致しないと会社役員の暴慢を批判したために「生意気な奴」と見なされ、生徒たちからも「身のほどを知らぬ馬鹿教師」と言われてその地を去っているし、3度目に中国辺の中学を去った事情については、被害関係妄想を思わせる次のような表現もみられる。「土着のものが無暗に幅を利かして、他県のものを外国人と呼ぶ。外国人と呼ぶだけならそれまでであるが、色々に手を廻してこの外国人を征服しようとする。宴会があれば宴会でひやかす。演説があれば演説であてこする。それから新聞で厭味を並べる。生徒にからかわせる」。
すなわち、『野分』の道也にも坊っちゃんや『猫』の苦沙弥同様、生徒や実業家と対立する中学教師という側面が認められるのだが、『野分』で興味深いのは、かつて道也を追い出した生徒側から当時の事情が語られていることである。かつて越後の中学で道也を学校から追い出した生徒の一人である青年高柳は、当時の事情を次のように振り返っている。「その先生をとうとうみんなして追い出してしまった」、「夜、15、6人で隊を組んで道也先生の家の前へ行ってワーって咄喊して二つ三つ石を投げ込んで来るんだ」、「なぜだかわからない。ただ面白いからやるのさ。おそらく吾々の仲間でなぜやるんだか知ってたものは誰もあるまい」、「知っているのは僕らを煽動した教師ばかりだろう」。
ここで語られている道也と生徒の関係には、生徒が組織的・集団的に嫌がらせをしていることや、生徒たちの背後には彼らを煽動した黒幕的な存在がいることなど、被害妄想的な特徴が顕著である。しかも、『野分』でも、主人公に対するあてこすりや嫌がらせが実際に行われていたという加害者側の打ち明け話が語られているわけで、こうした『野分』の基本構造をみると、漱石は明治39年12月の時点でも自らの幻覚や妄想を現実そのものと考えていた、つまりは病識を有していなかったものと考えられる。しかも、『野分』の場合、その嫌がらせ行為を行った高柳に、「どうも悪い人じゃなかったらしい」、「実に気の毒な事をしたもんだ」、「今度逢ったら大いに謝罪の意を表するつもりだ」と、過去の行いを後悔させていることを考えると、漱石は、自分に不当な嫌がらせをした人物に自らの非を認めて謝らせるという、現実世界ではなしえなかった夢を作品の中で果たしたとも言えるのではあるまいか。
その意味では、『野分』は、創作による現実代償作用を示す作品とも言えるのであって、漱石はこのような作品を書くことによって、現実世界での不適切な行為を幾分かなりとも防ぐことができたのではないかとも思われる。