鈴木大拙の弟子と自称する秋月龍珉師は埼玉医科大学の哲学の教授をされていました。講義の中で医学部の学生に「皆さん方は、これから医療の領域で人間の生老病死の四苦の課題に取り組むのですね。仏教は同じ課題に取り組み、2500年の歴史があり、その解決の方向を見出しているのです。同じことを課題とするわけですから、医療に携わる人は是非とも仏教的素養を持って欲しい」と語りかけていたという文章に出合いました。しかし、日本では病院の中で宗教者に出会うことはほとんどありません。
筆者が30数年前、米国シカゴに留学した時、西本願寺の別院が中西部仏教会として存在していて、米国の仏教事情を知りたいと思い、子どもを連れて日曜学校に通っていました。そこで親しくなった開教使が次のようなことを教えてくれました。「米国ではお寺の会員が入院すると必ずお寺に連絡が来ます。そしてその会員をお見舞いに行くのが僧侶の仕事になっています。お見舞いに行かないと職務怠慢として叱られます。病院に宗教者という資格で行けば、どんな所でもフリーパスで入れていただけます」。それを聞いて、宗教者に対する日本と米国の医療者の姿勢の違いに驚いたことを記憶しています。
治療という概念は「『老病死』はあってはならないことで、元気な『生』の状態(健康)へ戻すこと」として受け止められています。しかし、高齢社会を迎え日本人の男女の平均寿命が85歳近くになっている現代では、高齢者は直面する老病死をどう受け止めるかが課題になっています。
東北大学文学部において、臨床の現場で患者に寄り添う臨床宗教師(チャプレン)の課程創設に深く関わった岡部健医師はインタビュ―記事で、自分が進行癌を患い「死」に直面した時、「死に逝く者の道しるべ」を失った日本の文化に驚いた、と語っていました。科学的思考の医療文化に、老病死を受容する豊かな物語が出てくるでしょうか。
田畑正久(佐藤第二病院院長)[医療と仏教][臨床宗教師]