わが国を代表する哲学者の一人である和辻哲郎(1889~1960)の自叙伝1)には、照夫人による『「あとがき」に代えて』2)という文章が付されている。それは1960(昭和35)年、和辻が71歳で亡くなって自叙伝が中断したことを惜しんだ夫人の、「せめて晩年の病気のことだけでも」という思いから書かれたものであるため、戦前から戦後にかけての心筋梗塞患者の記録としても貴重な資料である。
和辻に最初の心筋梗塞の発作が起きたのは1939(昭和14)年の夏、50歳のときである。7月2日の夕方、和辻宅に来ていた12、3人の東大生が帰り、食事の用意ができた夫人が和辻を呼びに行くと、8畳間の畳の上に和辻が長々と寝ている。「両手で左の胸をかかえるようにしていて、顔には血の気がなく唇まで白くて額からは脂汗が流れていた。手も足も氷のように冷たくなり爪にチアノーゼが出ていた」。駆けつけた近所の医師は、注射を打っての帰りがけに、襖のかげに夫人を呼んで、気の毒そうな表情をしながら声をひそめて、「狭心症ですよ」と言った。
夫人は、かねてより懇意にしていた東大皮膚科の太田正雄教授に専門医を世話してもらおうとしたが、海外旅行で留守だったので、これも知人で精神科医の斎藤茂吉に電話したところ、茂吉は「ほう、そりゃあ、なに直ぐ私が行きますよ」と言って、往診してくれた。茂吉は、和辻の脈をとり血圧を計ってから、静かに座り直し、じっと和辻の顔を見守って、温かくやさしく、ため息をつくような調子で、「苦しいでしょう」と言った。それに対して和辻は、弱々しく微笑して、「七転八倒の苦しみと言うのはこんなのでしょう」と力無く答えた。発作の直前まで学生たちが来ていたことを聞いた茂吉は、「学生諸君はいけませんよ。一番いけない。くたびれますよ。もうこれからはおやめになることです」と助言した後、またじっと病人の顔を見てやさしい調子に戻り、「じゃあお大事に。追々らくにおなりでしょう。少なくも2、3週間はひとつ絶対安静ということに」と言って帰った。
茂吉の面倒見のよさとともに、心筋梗塞が疑われる患者にも往診する当時の精神科医の度胸の良さにも、驚かされるところである。
このときは1カ月ほど臥床しただけで、その後13年間は何事もなかった。ただし、和辻はしばしば、「狭心症は初め一度助かっても、あと5年以内が危い」として、「5年経つまでは内心ずい分ビクビクものでした」と言っていたというから、50代前半の和辻は心筋梗塞の再発に脅えながら仕事を続けていたことになる。
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