No.5058 (2021年04月03日発行) P.59
早川 智 (日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授)
登録日: 2021-03-17
最終更新日: 2021-03-17
中国料理は世界中で食べられるし、日本にも名店が多い。しかし本場は香港と台北だと思う。中でも香港は「食は広州にあり」で知られる広東料理の本場だが、新型コロナウイルスの流行と政治的な混乱で当分行けそうにない。何年か前、美食ならぬ学会旅行で香港に行った時、郊外の黄金海岸沿いに「青山公路(青山通り)」という道路があった。最近になって、小長谷正明先生の著書から、わが国の青山胤通博士に対する感謝から名付けられたことを知った。太平洋戦争中の日本による占領、戦後の英国復帰、さらに中国への香港返還という100年を経ても現地の人々の思いが残されているのは有り難い。
13〜15世紀の大流行の後、18世紀以降にはペストのパンデミックはほぼ終息していたが、1894年(明治27年)香港で再び大流行がみられた。明治政府は国の威信をかけて、東京帝国大学の青山胤通教授を団長とする調査団を派遣した。青山自身が剖検中にペストに感染するというトラブルの中、北里柴三郎は、臨床検体から菌を純培養、マウスモデルを確立した。ただ、画竜点睛を欠いたのはグラム染色で、北里はグラム陽性と報告したのに、ほぼ同じ方法で分離したパスツール研究所チームはグラム陰性と報告した。後にこの二つの菌は同一であることが判明したが、実際にはグラム陰性であり、第一発見者の栄誉はイェルサンに与えられた。ペスト菌の学名はYersinia pestisである。
さて、青山胤通は、1859年江戸は麻布広尾の苗木藩邸に生まれた。東京帝大卒業後、ベルリン大学でウィルヒョウに師事、帰国後は帝大教授として後進の指導に当たり、我が国の内科学の基礎を築いた。今でも本郷や日内会館にいささか厳めしい表情の胸像があって後輩たちを見守っている。森鴎外や樋口一葉、明治天皇の主治医でもあった青山の口癖は、「新しい薬や治療法をどれだけ研究するのもよいが、実際に患者さんに投与するのは有効性と作用機序が判ったものだけにしなさい」だったという。野口英世や北里柴三郎、高木兼寛の伝記では悪役として描かれることの多い青山博士だが、臨床家、医学教育者としては極めて高い見識の持ち主だったといえるだろう。新型コロナウイルス感染症治療の決め手がないまま、有効性を確認する前にファビピラビル(アビガンⓇ)やイベルメクチンに過剰な期待が集まっている現代の日本を青山博士がご覧になったらどう仰るか聞きたいものである。
早川 智(日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授)[医史]