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【識者の眼】「剝き出しの個人の危うさ」西 智弘

No.5135 (2022年09月24日発行) P.55

西 智弘 (川崎市立井田病院腫瘍内科/緩和ケア内科)

登録日: 2022-09-05

最終更新日: 2022-09-05

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前回(No.5131)の記事で僕は「日本人には信仰がない、と言われるが実際には日本人は信心深く、それが無意識下に溶け込んでいる民族である。しかし近年では、近代化や世代間継承の断絶によって、その無意識下の信仰心すら失われつつある。イエや信仰といった『自分を守る鎧』としての枠組みが弱くなってしまった現代の日本人は、裸同然の『剝き出しの個人』として死と対峙しなければならなくなってきている」といった内容を書いた。

宗教に関連した事件が起こるたびに、日本人は宗教というものに対する忌避感を強めてきたように思う。

「あなたには信仰がありますか?」

と尋ねると、多くの人は「とんでもない」とのけぞるか、顔をしかめて大仰に否定する。それくらい宗教というのは今の日本人にとって「怪しいもの」「危険なもの」「避けるべきもの」になってしまっている。そして「自分は無宗教ですから」ということに誇りを持っているようにすら見える。

しかし実際には、ある程度の信仰心はあったほうが安全である、という見方がある。

信仰心がないことを「剝き出しの個人」と僕は表現したが、それは言うなれば無垢であるということと同義である。そういった心は、介入しやすい。それまで「宗教なんてすべてインチキだ」と否定し続けていたとしても、ある時何か一つでもその宗教の物語の中に「真実」を見出してしまったら、その瞬間にすべてが覆ってしまうことはよくある。

しかもそれは、昔ながらの「布教」という形ではなく、サークル活動や出版物、または消費行動の影などに隠れる形で、信者を取り込もうとしてくる。そういったときに、「私は大丈夫」と自信がある人ほど、結果的に脆い、という事例も枚挙に暇がないものだ。

そして医療も、現代においては信仰の対象となりうる。「剝き出しの個人=無垢の心」が、病という危機に出会ってしまった際に、「何かにすがりたい」という感情が100%医療に向かってしまうことがある。しかし医療は宗教ではなく、医師はその信仰心を受け止めきれるほどの覚悟はない。そのため、「科学」の枠組みで淡々と対応する標準治療に飽き足らない患者さんたちは「他にすがれるもの」を探し求めていく。そこに付け込んでくるのが、いわゆるニセ医療やスピリチュアル的なものであり、悲劇の原因となっていく。

かといって、医療の立場から「信仰心を持ちましょう」などと促していくのはお門違いであるし、現代の方々がそれを素直に受けてくれるはずもない(何を信仰すればいいのか、という問題もある)。であれば、僕らは患者さんたちの「(信仰に守られていない)剝き出しの個人」としての感情、依存に注意しながらそれを取り扱うすべを学んでいく必要がある。自らが教祖になるのではなく、かといって機械のように応じるでもない。緩和ケアの現場ではこのような難しい対応が求められている。

西 智弘(川崎市立井田病院腫瘍内科/緩和ケア内科)[宗教][緩和ケア]

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