隠居生活における最大の楽しみにしていた家庭菜園、準備はちょっと大変やったけど、むっちゃ順調です。いまや、楽しすぎてたまらんような状態になっとります。
文献派なので、家庭菜園の本をたくさん買いそろえてお勉強をした。どの本にも、野菜作りを始めると利用可能な土地をすべて畑にしたくなるから注意が必要、とか書いてある。そんなもんかいなぁと思っていたのだが、ホンマにそうなった。最初は20坪弱だったが、徐々に広げていまや30坪ほど。耕作可能な面積すべてに何かが植わっているような状態だ。
さして広くはないけれど家で食べるだけなので、少量だが多品種を栽培している。だから、種蒔き、育苗、植えつけなど、けっこう手間がかかる。水やり、雑草引き、その他、なんやかんやで、平均すると毎日2時間ほどは畑に出ている。それに、1日に何度も2階のベランダから畑を眺めている始末。飽きっぽい性格なのに、驚くほどのご執心だ。
晴耕雨読、といえばそういうことになるのかもしれない。しかし、晴れていて用が多い日もせいぜい半日くらいだし、そんなに頻繁に雨が降るわけでもない。文字通りの晴耕雨読=晴天日は農作業に専念、となると100坪やそこらは必要だろう。よく知られた言葉だけれど、字義通りに実行するのは相当に難しい。
とはいえ、「晴耕雨読ですか」と尋ねられると「はい、そうです」と答えることにしている。細かく説明するのが面倒ということもあるが、気持ちとしては晴耕雨読の暮らしだからという理由が大きい。ある人に「晴耕雨読というのは道の両側を同時に歩くようなものだから、きわめて困難である」と言われたのだが、私くらいのレベルの精神的な晴耕雨読ならば十分に可能だ。
これまでまったく考えたこともなかったが、畑を始めて不思議に思うことがいくつかある。まずは、売られている野菜が安すぎること。キャベツ1個やダイコン1本がたかだか100円くらいで売られているのはどうしてなんだ。
もちろん大規模でやれば手間が少なくてすむのだろうが、それでも、耕したり肥料をやったりはせねばなるまい。それに輸送費や販売コストまでいれてそんな値段である。これは絶対におかしい。
2つ目は、売られている野菜が大きくて、なおかつ形がよく揃っていること。家庭菜園ではありえない。同じ環境で大量に育てて、その中から選別すればいいだけのことかもしれない。しかし、これとて絶対に個体差はある。規格外のものが捨てられているとしたら、もったいなさすぎる。
3つ目は虫害のすさまじさ。キャベツとかハクサイなどはやたらと虫に喰われてまともに育たない。農薬が有効なのはわかっているが、それだけは絶対に使うまいと決めている。売られている野菜は農薬まみれになっているんとちがうんかと心配になってしまう。すべてがハウス栽培ということはないだろうし。
結論としては、野菜は自然にまかせて作って、もっと高く売られるべきということ。食糧自給率の低い日本である。農業をもっと大事にせんとあかんやろと、小さな菜園から声を大にして叫びたい。
家庭菜園を始めてから、ふと気がついた。あまり野菜が好きではない、ということに。アホとちゃうかと思われそうだが、本当である。逆にいうと、それくらい農作業そのものに憧れていたのだ。まぁ、自分で食べなくても趣味だからいいやと耕していたのだが、あに図らんや、作物が採れるにつれて、やたらと野菜好きになってきた。理由は明らか、美味しいからである。
美味しい美味しいと言いながら食べていた。前にも書いたが、最初のうちは、「自分で作ったからそう思うだけちゃう?」と、妻に冷たく言い放たれていた。しかし、いろんな種類の野菜が次々とできるにつれ、そんな妻でもさすがに、家庭菜園で作ったのは美味しいと認めるようになってきた。へへっ、まいったか。
いちばんの理由は新鮮であること。朝、取れたてのリーフレタスを食べると、本当に幸せな気持ちになれる。そんなこと言われてもわからんわと思われるかもしれないが、これはプランター栽培でも十分にできるものだから、いちどやってみられてはどうだろうか。超オススメだ。
もうひとつは、売られている野菜はちょっと育てすぎではないかということ。十分に育てたほうが重くなるのだから、経済的合理性は理解できる。だが、野菜の種類にもよるが、ソラマメやエンドウなどの豆類は完全に育ちきる前のほうが絶対に柔らかくて美味しい。スナップエンドウなど最たるもので、採りたてを生で食べるとあまりにジューシーでびっくりする。
始めて1年にもなりませんけど、農作業中心主義にどっぷり浸りきってるこのごろです。最高ですわ、ホンマに。