寝起きにボーっとした頭でA新聞を読んでいたら、社説に「学術会議改革 真に国を支える組織に」の見出しが。あら、ここにも「真に・真の」症候群が。
お上・専門家・メディアの方々が持論を下々の者に説こうとする際、頭に力が入りすぎて自分でもなにを言ってるのかわからなくなったとき発せられる「真の○○」という枕言葉。「シン・ウルトラマンかなんかっすか、それ?」などと茶化すと怒り出す人がいるので注意がいる。
賢明な先生方は、医療界隈でも「真の」が溢れていることにお気づきのことだろう。一時期のお役所の通知には「真の」がこれでもかと登場していた。たとえば薬価改定には薬の「真の臨床的有用性」を考慮するらしい。薬価が優遇されるのは、企業が「真の有効性」を示した薬や「真に医療の質の向上に貢献する」薬に限定するのだそうである。いや、冗談ではない。通知にそう書いてある。
何度も繰り返して恐縮だが、そもそも「有効性」という語が薬機法上も臨床薬理学的にもまったく意味不明なのである。それに「真の」をつけたところで意味不明なのは変わらない。某政治家の名言「バカ足すバカ足すバカは、バカなんだ」と同じ理屈である。
「真の」の出現頻度は最近減っている。代わりに増えたのが「一定の○○」。PMDAの審査報告書には「この薬には一定の臨床的意義がある」といった表現が頻繁に登場する。先日の第一三共のコロナワクチンの承認の際には大臣が「このワクチン承認には一定の意義がある」と語っていたし、例の処理水放出について「関係者の一定の理解を得た」なるコメントが別の大臣の口から出たことは記憶に新しい。意味がほぼわからない。
お上や専門家が「真の」「一定の」を乱発するのは、「有効性」「臨床的意義」といった意味不明語をお気軽に・テキトーに使おうとするからである。本来は、「真の」などと口走る前に、これら意味不明語の意味をきちんと考えるべきなのだ。横着してはいけない。
もっとも、中には、「情けないことに、ホントは自分がなにを言ってるのか自分でもわからないんだよ」と自覚しているからこそ威勢のいい「真の」を付けてしまうヒトがいるかもしれぬ。わずかに残る良心、「五分の魂」が宿る証左が「真の○○」かも。
「真の有効性」と力説する方々を私のように厳しく断罪するのか、あるいは「五分の魂・良心」の顕れと生暖かく(笑)見守るのか。人間の懐の深さが問われている。
小野俊介(東京大学大学院薬学系研究科医薬品評価科学准教授)[薬効評価][語用論]