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中 勘助と「二人の化学者」 [エッセイ]

No.4782 (2015年12月19日発行) P.72

金津赫生 (つくば市並木)

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-01-31

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  • 2015年は中 勘助の生誕130年、没後50年に当たる。中 勘助は小説『銀の匙』の作者として語られることが多いが、若い頃から詩作を志し、ユニークで多彩な詩を残した。その中に、古今東西の著名人の事績を簡潔にまとめた、「詩伝」とも称すべき作品群がある。「達磨さん」や「ヘンリー・キャヴェンディッシュ」などは、ことに珍重すべきものである。

    一方、身近に接した人々の生涯については、詩のほかに日記体随筆によってイムモータライズした。1943(昭和18)年に刊行された『蜜蜂』は、勘助の兄・中 金一(1871~1942)に嫁いで40年、夫が病に倒れて33年、蜜蜂のように働き続けて果てた兄嫁末子(松陰門下生、野村 靖の五女)を追慕した作品である。小品「余生」は『蜜蜂』を贈られた人から届いた礼状を写し取って、それをよすがとしてさらに兄嫁への敬慕を深めたものである。併せて岩波文庫に収録されている。以下に引用するのは「余生」の一節である。

    「八月三十一日 志賀 直氏
    御無沙汰致しております。昨日は思いがけなくも御近著『蜜蜂』を御恵与頂き誠に嬉しく存じました。(以下略)
    追記。私はついこのあいだ白井氏から志賀さんは亡くなったのだそうだ という知らせを受取った。……(中略)お逢いしたのは畠山氏の出征の見送りに駅のプラットフォームで偶然一緒になり、畠山氏に紹介されて挨拶した一度だけだった。……かつて私は畠山氏との雑談のあいだに数学上の計算のみによって存在を認められ出現を予想された海王星が立派に約束を守って観測者の望遠鏡のまへに姿を現した事をいつか詩にしようと思いつつまだ果たさずにいるという話をしたことがあった。畠山氏がそれを先生である志賀さんの耳に入れたところ、偶ま志賀さんが研究中の蛋白質の構造について英国の女流数学者の数学上の結論と実際上の結果とが立派に一致するという前記の海王星発見の場合とよく似た点があるところから未知の私に論文を下さることになったのだっ た……」

    志賀 直(1901~44)は赤痢菌発見者・志賀 潔博士(1870~1957)の長男で、博士の留学中に仙台で生まれ、3歳のときから東京に育ち、府立第四中学校、第一高等学校を経て、1926(大正15)年東京帝国大学医学部を卒業すると同時に生化学教室に入り、1937(昭和12)年日本大学に創設された生化学教室の教授に迎えられ、1943(昭和18)年の春、台北帝国大学教授に転じた。尊父によると、直博士は「母死す」の報に接して帰りを急ぐ途上、長崎港外にて潜水艦の攻撃を受けて消息を絶った。1年後の公報には「昭和十九年七月三日午後十時三十分東支那海にて死没せることを確認す」とあった。

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