1916(大正5)年に森 鷗外が発表した『渋江抽斎』(岩波書店刊)は、鷗外史伝中の白眉として世評の高い作品である。そこには、鷗外同様、「多方面であった抽斎には、本業の医学に関するものをはじめとして、哲学に関するもの、芸術に関するもの等、あまたの著述がある」という、抽斎に対する鷗外の敬慕の念が溢れている。「抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書や諸子のような哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のような文芸方面の書をも読んだ。その迹が頗る私と相似ている」と語る鷗外は、「もし抽斎がわたくしのコンタンポランであったなら、2人の袖は横町の溝板の上で摩れ合ったはずである。ここにこの人とわたくしとの間に暱みが生ずる」として、抽斎に対する親愛の情を隠そうとしないのである。
しかも鷗外は、抽斎と自らとの懸隔にも触れて、「今一つ大きい差別がある。それは抽斎が哲学文芸において、考証家として樹立することを得るだけの地位に達していたのに、わたくしは雑駁なるヂレッタンチスムの境界を脱することが出来ない」と、自分よりも抽斎のほうが上だとする見方すら示しているのであるが、それほどまでに鷗外から評価される抽斎が、医師としていかなる人生を送ったかと言えば、そこにはいささか気になる点がある。
1858(安政5)年、公儀に召されることになった抽斎は、それを受けるとこれまで仕えてきた津軽家を辞さなければならないとして、次のような決意を述べる。「おれは元禄以来重恩の主家を棄てて栄達を謀る気にはなれぬから、公儀の方を辞するつもりだ。それには病気を申し立てる。そうすると、津軽家の方で勤めていることも出来ない。おれは隠居することにきめた」。
このとき54歳だった抽斎は、父親が59歳で隠居して74歳で亡くなったことを先例として、自分の隠居後の生活について、「もし父と同じように、74歳まで生きていられるものとすると、これから先まだ20年ほどの月日がある。これからがおれの世の中だ」、「おれは著述をする。まず『老子』の註をはじめとして、迷庵棭斎に誓った為事を果して、それから自分の為事にかかるのだ」と述べたという。
しかし、こう語った年の8月、抽斎は江戸で流行していたコレラに感染し、1週間ほど寝込んだだけで54年の人生を閉じたのである。
このように、抽斎は医師を辞める段になって、「これからがおれの世の中だ」と語っているわけで、そこには医業を自分の本当の仕事とは見なしていなかった様子がうかがえる。
もちろん、様々な事情により本来の意に反して医師としての道を歩みはじめる人は少なからずいるであろうが、それでも医学を学び医師としての経験を積む中で、これも自分の天職のひとつだったという実感を持ちえぬまま終わるのならば――ほかの趣味・才能の有無を問わず――、医師としての人生は、不幸だったと言わざるをえないのではあるまいか?ましてや抽斎は、自分本来の人生を生きる時間もないまま、亡くなっているのである。
いや、当時としては必ずしも短命とは言えない54という年齢を思えば、自分も父親同様の長寿に恵まれることを前提に人生設計を建てたところに、抽斎の誤謬があったのではないかとも思われるが、医師にとって最もむずかしいのは、自分自身の予後予測かもしれない。
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