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マールブルクと鎌倉 [エッセイ]

No.4742 (2015年03月14日発行) P.68

太田一樹 (鎌倉女子大学教授)

登録日: 2016-09-08

最終更新日: 2017-03-14

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  • 私は、2006年7月から2009年3月まで、ドイツ・マールブルク大学医学部免疫生理学教室に留学し、脳・内分泌・免疫連関についての研究を行った。マールブルク大学の向かいには1207年に生まれた聖エリーザベトを祭る聖エリーザベト教会が建っており、時を告げる教会の鐘の音に心洗われたことを思い出す。帰国後鎌倉の地に参り、1217年に生まれた忍性菩薩が活躍された極楽寺というお寺が静かに建っていることを知った。洋の東西でほぼ同時期に生まれた聖人が共に、病気や貧困で苦しむ人々の救済に一身を捧げ、社会福祉事業の先駆けとして今も敬われていることを紹介する。

    聖エリーザベトと聖エリーザベト教会

    聖エリーザベトはハンガリーの王女で、4歳の時にヘルマン伯の王子とヴァルトブルク城(ドイツ・テューリンゲン州)において婚約したが、王子は夭折、14歳の時にルートヴィヒ4世と結婚した。2人の仲はよく、幸せな結婚生活だったそうである。当時から、聖エリーザベトは神への深い信仰に支えられた生活を送っていた。毎日食べ物を持って貧しい人の家を訪れ、ハンセン病に苦しむ人々に沐浴を行い、ペストによる死者を亜麻布で包み厳かに埋葬していた。また、城の近くに施療院を作り、飢饉が起こった時には国中から貧しい人々を呼び寄せ、城に蓄えてあった食料を施した。

    当時の宮廷には、このような行いを批判的にみる人も少なくなかった。そのような人々から話を聞いたルートヴィヒ4世が、施しの食べ物が入った籠を忍ばせて城から降りてきた聖エリーザベトに声を掛け、籠の中を覗いたところ、食べ物が美しいバラの花に変わったという「バラの奇蹟」の話が残っている。

    とても幸福な結婚生活は、十字軍に加わった夫が26歳で亡くなると一変する。親族による反乱が起こり、ヴァルトブルク城を追放された聖エリーザベトは各地を転々とし、翌年ようやくマールブルクに落ち着いた。そこで病院を建て、自身も病院で過ごしながら病者や困窮した人々、見捨てられた人々への奉仕に徹した。1231年、24歳で静かに息を引き取ったが、4年後には教皇グレゴリウス9世により列聖され、ドイツ騎士団によって墓所の上に聖エリーザベト教会が建てられた。「病人と貧者の母」という言葉は聖エリーザベトの代名詞となっている。また、1862年にはフランツ・リストが「聖エリーザベトの伝説」と題した聖エリーザベトを讃えるオラトリオを作曲している。

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