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【識者の眼】「いつの間にか『子育ての外部化』も進んでいる」佐藤敏信

No.5032 (2020年10月03日発行) P.63

佐藤敏信 (久留米大学特命教授、元厚生労働省健康局長)

登録日: 2020-09-17

最終更新日: 2020-09-17

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前回(No.5027)の「親孝行の外部化」に関連して言えば、実はいつの間にか「子育ての外部化」も進んでいる。かつては親が子どもを自分で育てるのは当然だった。3世代同居が当たり前だったので、かなりの部分は祖父母が担っていたかもしれないし、子どもの兄や姉、近所のお兄ちゃん、お姉ちゃんもそうだったろう。いずれにしても、「内部」で対応する話だった。

外部で対応するのは「保育に欠ける子」の場合だけだった。象徴的には戦災孤児、それに戦争未亡人とその遺児に対するものであった。要は、経済的に貧しい層の保護者が労働に出ている間、乳幼児を保護するという考え方である。言い換えると、本人の責任だけに帰することのできないような特別な状況に置かれている者に対して、国の責任において措置を行うというものである。

親孝行の外部化でも書いたが、一次産業の衰退により、土地による縛りがなくなり、二次産業、三次産業中心になって職住は分離された。そうなると、女性も、男性と同等かそれ以上に能力を発揮することができるので、社会進出が促された。ところが、いざ子育てとなると、核家族化が進行しているから、祖父母に頼むわけにもいかない。そうこうするうちに「保育に欠ける」の定義が変化し、保育が一部の層のものだけではなくなった。SNS上で広がった「#保育園に落ちたの私だ」の言葉が象徴的だ。子育てはいつしか国の責任になり、保育を受けるのは国民の当然の権利になっていたのだ。

介護の外部化には、年金や介護保険制度、社会保障制度の充実が必要なので、国の立場からはその担い手としての若年層の増加に期待したい。しかし、合計特殊出生率は下がる一方だ。表向き、産めよ増やせよとは言えないので、産み育てる環境づくりの整備という名目で、子育ての外部化が進む。しかし、前述の社会の変化と子どもを持つ意味の変化を踏まえないまま、これまでのようにとりあえず考えつく政策を進めてみたところで、効果が見えないまま時間だけが経過するだろう。

我々が後期高齢者になり、年金や介護のお世話になる頃には、いったいどういう社会になっているのだろうか。

佐藤敏信(久留米大学特命教授、元厚生労働省健康局長)[高齢化の中での少子化対策]

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