本稿執筆時点で、「例のあの件」で世界中が騒いでいる。
事実関係がほとんど不明な本件について、皆、主張せずにはいられない。SNSやヤフコメに書かれていることの99.99%くらいが憶測だ。ほとんど憶測でできている話を、なぜこれだけ断定口調で主張できるのか。
ファクトチェックはメディアの鉄則だが、ソーシャルメディアにファクトチェックは必要ない。憶測であろうと、あからさまなデマであろうと、根も葉もない「トンデモ」陰謀論であろうと、断定口調で主張できる。それを見た人も無批判に、事実確認なしにリツイートする。
ソーシャルメディアはラージメディアを弱体化させ、殲滅させかねない勢いだが、こと信憑性に関する限り、ラージメディアのほうがはるかに信頼できる(全面的に信頼できる、とは限らない)。一方、ソーシャルメディアは玉石混淆。味噌まみれなのかクソまみれなのかも、峻別しがたい。
多くの人にとって、ことの真偽はもはや「どうでもいいこと」なのだ。ファクトよりも願望である。事実を知りたいのではない。見たいものを見たいのだ。自分の欲望に寄せた情報で、欲望を満たせばそれでよいのである。たとえ事実であっても自分の琴線に触れないものは、「不快な情報」として否定されるのだ。真偽よりも快不快が是非の基準だ。
新型コロナウイルス感染症についても、まったく話は同じであった。おっと、今更、新型コロナの話なんてするな、と「不快」に感じた方からは本稿は全否定されかねない。
自分の感情に心地よい情報は、たとえそれが根も葉もないデタラメであろうと、ソーシャルメディアで拡散する。ファクトチェックはなされず、あるいは自分に都合の良い情報だけを「ファクト」としてさくらんぼ摘み的ファクトチェックをしてアリバイ作りにする。
ソーシャルメディアでも、信頼できる発信者はいる。信頼の根拠にできるのは「自説に都合の悪い情報もきちんと誠実に取り扱っているか」である。仲間褒めだけでなく、仲間批判もできるか。ワクチンその他の医薬品は効果だけでなく、副反応や副作用などネガティブな情報も誠実に扱っているか。それができずに、「いつも同じ話、いつも同じ立場」の発信は、いわば一種のプロパガンダをやっているのだ。
確かな情報がほとんどない状況下で、我々にできることは待つことだけだ。語り得ないことは沈黙するしかないのだ。
待てないテレビのワイドショーを信用してはいけないのは、そのためだ。
岩田健太郎(神戸大学医学研究科感染治療学分野教授)[ソーシャルメディア][情報の快・不快]