私の実家は盛岡市の開業医(皮膚科・泌尿器科)であるが、先祖の由来は石川県の石動山(せきどうざん)に割拠していた山伏の一党が前田利家に駆逐されて、日本海側を北に逃れて各地に離散し、一部が内陸の岩手県の紫波町に落ち延びてきたものと言われている。山伏、僧兵でもあり、修験の傍ら薬草などを利用して医療を施し、僧侶、医業、それに寺子屋(教育)に携わり、それぞれの系譜が続いてきた。私の曾祖父〔岩動正雄(1850~1936)〕は医業を営み、特に梅毒と癩病(現・ハンセン病)をよく治すことで知られ患者が全国から押し寄せたそうで、彼の指示を完全に守ればほぼ全員が治癒したと言われる。
我々の祖先が紫波町に寺を興してからの系譜は彼の代に至るまで十代以上続いており、苗字も最初は石動(いするぎ)であったが、明治になってから岩動に改名された。曾祖父の2~3代前、すなわち幕末の頃から、それまで秘密とされていた家伝の治療法が文書にまとめられ、何部かの文書として秘蔵されていた。そんなあるとき、岩動家を訪れた医業に詳しいとみられた旅の僧が長期間滞在して、当主と意見を交換し、立ち去るときに医療のみでなく、医師の心得とも言える奥義をしたためた巻物を残していったものも秘伝として残されていた。
しかし、曾祖父の長男(私の祖父)は医業を継がず文科系に進み、正岡子規門下の俳人でもあったが、結核のため早世した。その頃私の父〔隆一(1905~1990)〕はまだ少年で、残された文書を見ても理解はできなかったようであるが、後に岩手医学専門学校に入学し現代医学の修業の傍ら、いくらかの努力はしたとみえて、1990年に他界したときに未完のノートが残されていた。
我々兄弟姉妹は6人で、うち4人が医師になったが、秘伝の文書類に誰もあまり興味を示さなかった。しかし3番目の妹(佐々木淑子)は薬学科を出た薬剤師であるが、学生時代から生薬の分野に興味を持ち、秘伝の巻物や文書類に早くから関心を抱いていた。文書類の内容としては治療法、特にハンセン病の治療、すなわち薬の処方の詳細、病変部の洗滌法、灸の細かな実施法などが記載されていたようである。
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