西南戦争のあおりを食って帰国を余儀なくされたウィリアム・ウィリスは1881(明治14)年11月、イギリス公使館付医官として再度来日し、妻子との再会を果たした。しかし、しばらくすると傍から見ても明らかにふさぎこむようになり、翌年1月末、息子のアルバートだけを連れて神戸に赴き、そのまま上海を経て帰国してしまった。上海で代理公使宛に辞表を提出しているが、辞職の理由として、医官として受け取る給料が少ないので、診療活動によって補おうと考えていたが、診療できる見通しが立たなかったことを挙げている。また、親友のサトウは「役人たちがそっぽを向いた」と述べている。
ここで思い出されるのはウィリスのパークス公使宛の書簡である。鹿児島に赴任してからおよそ半年後に出されたもので、a little rascalが、ことごとく自分に反対し、反対することに喜びを覚えているようであった。江戸の筆頭医師の縁者で、江戸から鹿児島についてきていたが、彼さえいなければ江戸の医学校で教育・診療を続けられたであろうに、と述懐していた。
この小悪党の詳細な検証は省くが、蓋然性の高い人物として石神豊民の養子、徳蔵が挙げられる。徳蔵は米国に留学する直前に病死していた。1875(明治8)年に豊民が逝去すると家督をロンドンに留学中の豊胤が継ぎ、徳蔵の弟である六郎は石神家を離れねばならなくなった。たまたま西郷のところに来ていた、旧庄内藩の池田賚の斡旋で相続者の絶えていた酒田の石神氏を継ぐことができた。石神六郎は1882(明治15)年には少軍医となり、林 朴庵大軍医らとともに海軍省軍医部に配属された。ウィリスが六郎に会ったという証拠はないが、高木兼寛大医監が林 朴庵に引き合わせた可能性は高い。石神豊民と西郷は朴庵を介してパークスの承認を得た上で、やや乱暴なウィリス招聘工作を行ったのであろう。朴庵から往時の事情を聞かされたウィリスは、やがて帰任するパークスを避けるようにして日本を離れたものと推察される。