昨年2月に『死ねない老人』(幻冬舎刊)という題名の本を出版したことを契機に、日本尊厳死協会関東甲信越支部理事を拝命した。理事には医師のみではなく、いろいろな職種の方々がおられるので、理事会では様々な視点からの意見をお聞きする。私も以前は、救急病院、大学病院や基幹病院の外科で勤務し、現在は診療所での外来診療と在宅医療を行いながら、現在の日本の終末期医療に関して、少なからず疑問を感じてきた。
この傾向は医療界でも徐々に拡大しており、「全人的な医療」という言葉を耳にすることが多くなった。「尊厳死」という言葉は、「death with dignity」という英語と類似しているが、こちらが意味するのは安楽死とまではいかなくても、それに類似する概念であり、日本語の「尊厳死」とは明らかに意味が異なる。その点の誤解もあるためか、尊厳死法案の成立が阻まれているようにも思われる。
協会が主催するサロンで市民の方々の話をお聞きすると、いわゆる「終活」が当然のごとく話題になる。ただ、実際に自身が入院あるいは救急車に乗る事態になったとき、そのあとに何が起こるのかを具体的にイメージできている方は少ないな、と感じる。本人の意識がないような重篤の場合、検査をすれば何かしら異常は見つかる。それを治療せずに放置するのは医療従事者やご家族にとって、現状では大変勇気のいることである。状況によっては「放置」ではなく、「見守る」という考え方ができる医療文化があってもよいのではないだろうか。
「尊厳死」と並んで、「平穏死」という言葉がある。こちらのほうが、死ぬ間際に医療従事者やご家族が大騒ぎをせず、結果として、本人の苦痛が少なくなるような治療のイメージがしやすいかも、とも感じる。「平穏死」を実現するためには、自身が元気なうちに、そうしたいという意思を身近な人に話しておくことが不可欠ではあるが、そのことを受け入れる土壌が現在の日本の医療には決定的に欠けており、それに対する医療者への教育が急務であろう、と考えながら、100年程度の時間は取るに足らない悠久の宇宙を時々見つめている。