私の勤務する病院の近くに世界文化遺産である真言宗御室派総本山仁和寺がある。この寺の創建は西暦888年であり、宇多天皇により創建された勅願寺である。
漱石は50年の生涯の中で4度も京都を訪れている。漱石の生涯で同じ処を4回も繰り返し訪ねたことはないようであるから、漱石はよほど京都が好きであったと思われる。
明治40(1907)年3月から4月の2回目の京都訪問の折に、この御室仁和寺を訪ねている。漱石41歳であった。
予て漱石は30歳頃から宝生流の謡曲を習っていた。漱石の作品中に京都の風景や謡曲に関連した様子が描かれたものがある。たとえば、『虞美人草』の冒頭の雲母坂から比叡山登山の様子や保津川下り、『草枕』では画工が峠の茶屋を訪れて、出てきたばあさんの姿を宝生の「高砂」の媼に重ねている様子などである。漱石が習いはじめた最初の謡曲が世阿彌の「経正」であった。
この経正とは平 経正で平 敦盛の兄であり、清盛の甥に当たる人物である。経正は幼い頃から仁和寺にあって、琵琶の名手として知られて、琵琶の名器「青山」を弾じていた。源平合戦が始まるに及んで、経正は一ノ谷で討ち死したという歴史事実からつくられたのが謡曲「経正」である。この謡曲では、仁和寺の僧行慶が亡くなった経正を偲んで、琵琶「青山」を供え、経正を供養しているときに琵琶の音を慕って人影が現れて、在りし日の詩歌管弦に親しんだ頃を懐かしみ、舞いながら浅ましい戦いに投じた身を恥じて、闇夜に紛れて経正の亡霊がまた消えてゆく、というのが、その大凡の筋書きである。
漱石の俳句に「琵琶の名は青山とこそホトトギス」「経正の琵琶に御室の朧かな」と詠んだ句がある。
病院への通勤の途上、毎朝通り抜ける仁和寺であるが、謡曲「経正」を吟じていた漱石の生誕150年目を思うことである。