株式会社日本医事新報社 株式会社日本医事新報社

CLOSE

第2次世界大戦から75年[炉辺閑話]

No.4993 (2020年01月04日発行) P.67

森岡聖次 (夢眠クリニック名張院長)

登録日: 2020-01-05

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

私の父・森岡正義は2018年10月に死亡した。満88歳であったので、兄弟姉妹の中では長命のほうだった。

父は第2次世界大戦中には、中学生くらいの年齢から川崎重工の泉州・淡輪にあった工場で、人間魚雷「回天」を製造する仕事に従事していた。父は多趣味で生業は親の代からの理容師であったが、海釣り、狩猟(鳥類、シカ、クマなど)、ギター演奏など、私などからみれば自由人で満足のいく戦後であったと思っていたが、人間魚雷の一件については、孫に詳しく聞かせていたが、私自身は話を聞いたことは記憶になかった。

その後、私は重松逸造先生(当時、放射線影響研究所理事長)、橋本勉先生(和歌山県立医科大学公衆衛生学教授)らのご高配により奨学金を得て、英国セント・トーマス病院公衆衛生医学教室へ1996~97年に留学させて頂き、環境疫学の仕事を経験して帰国したが、父が私の小学生当時によく「鬼畜米英」と言っていた記憶はある。

たまたま留学中にHIV感染症の疫学研究者であったEddy Beck博士(オランダ出身。当時はSt Mary’s College疫学部、その後UNAIDSでも活躍)と交流ができたが、彼のご尊父は第2次世界大戦中、日本の泰緬鉄道建設(ミャンマー〜タイ間)プロジェクトに捕虜として投入されていたと聞いた。彼とは今でもクリスマス・カードのやりとりを続けているが、「かつて親の代で敵対していたことは事実として、我々がその関係を乗り越えられないわけはない」と言ってくれたことが、私の救いになった。彼とは日頃研究以外でも、英豪のクリケット試合The Ashesをローズ球技場で観戦したり、ロンドンにある日本料理の店を探訪したり、多くの充実した時間をともに過ごした。

わが国にも菊池寛『恩讐の彼方に』のような遺恨を越えた友愛や連帯の美談はある。また、諸外国にも同様の趣向の物語はあるだろう。私とEddy Beckとの関わりはそれらと比べて卑小な事例であると思うが、少なくとも自分の留学生活を支えてくれた交流であったとありがたく総括している。

関連記事・論文

もっと見る

関連書籍

関連求人情報

もっと見る

関連物件情報

もっと見る

page top