私の名刺には医師のほか、新たに郷土史研究家という肩書が加えられた。実績もないのに、と言われれば面を伏せるしかないが、余裕ができた日々を歴史懇話会や史跡巡見に参加して、同好の士たちと語り合うことが楽しみにひとつになっている。郷土史に埋もれた魅力ある人物に出会い、その生涯を追うたびに、私は「野に遺賢あり」という思いを深くする。「遺賢なし」が本来の用いられ方らしいが、野にあって多量の仁を持って生きた人びとにこそ、この言葉を捧げたくなる。
そんな一人、H. Mさんについて語ろう。
小学校時代、旧陸軍の内幕を知る男として名高い服部卓四郎と二秀才と並び称されたMさんは、東京商科大学(現一橋大学)を卒業して間もなく、親戚筋にあたるH家の養子となる。H家は当地の大地主、士族と商家の家風の違いに戸惑いながらも、家業のほかに実業界の要職を占め活躍する。
不運なことに45歳のときに終戦となり、先代から受け継いだ電力会社の戦後処理に苦労を強いられる。相次ぐ労働争議は温厚なMさんを疲弊させ、相続問題、農地解放後の富裕税、資産税なども悩みの種となった。
縮小を余儀なくされたとはいえ、無事、家を守ったMさんは乞われて他会社の役員などを務め、やがて悠々自適の生活に入る。
Mさんは大変な読書家で、芸術文化にも造詣が深く豊かな教養を備えた知的紳士であった。英字新聞を読むのを習慣にするほどの努力家でもあり、思いやりの深い、温かい人柄は誰をも魅了した。当地が生んだ第一級の人物であるMさんが残した書の中に「昨日の我に飽きたり」という一節が記されていたという。自らもそうであったように、前向きに生きよ、と子らに口癖のように言っていた。
昨日より今日、今日より明日と絶えず自己研鑽に努める「野の遺賢」に巡り会わせてくれる郷土史は、私の大切な友だちとなっている。