鷗外・森林太郎が初めて西洋(マルセーユ)の地を踏んだのは明治17年10月7日のことであった。翌日、同行10名と記念写真を撮り、片山國嘉らベルリンに向かう7名を見送り、単身で、あるいは法学志願の2名とともに、6時発パリ行きの汽車に乗り込んだ。9日午前10時パリ着、メイエルベールホテルにチェックインするとベルリン留学中の佐藤佐と邂逅した。3年ぶりの再会で、話も弾んだであろう。マルセーユに向かう佐に漢詩を贈って別れ、夜はエデン劇場で観劇した。「パリの一夜」として知られている。ところが、翌10日の日録は「至公使館。午後八時。汽車発巴里」と素気ないものである。
この空白の半日は一体、何に費やされたのであろうか。考えられるのは、自分を陸軍に入れるのに骨折り、軍医本部で翻訳の仕事を命じ、ドイツ留学の道筋をつけてくれた林紀軍医総監の墓に詣でることである。軍医総監はロシア皇帝の戴冠式に参列する有栖川宮熾仁親王に随行し、しょう紅熱に続発した腎炎がパリで再発して明治15年8月30日病没し、モンパルナスに葬られていた。公使館訪問の目的も墓地の所在を聴くためであったとも考えられる。
当時の公使館付武官は寺内正毅中佐であった。しかし、折あしく中佐は一足違いでベルリンに呼ばれていた。墓碑の地番を聴き出してモンパルナス墓地を訪れたものの、訪ねあぐねて空白の半日が生まれたのではないだろうか。
鷗外がベルリンに着いたのは10月11日であったが、寺内の12日の日記に「日本ヨリ森二等軍医来着」と記載されているそうである。鷗外の留学時の上司は緒方惟準軍医部次長であった。緒方と林はともにオランダに留学していた旧知の仲である。鷗外のパリ迂回申請を緒方が許可して、フランス公使館にその旨伝えていたのであろう。因みに、帰還時に石黒忠悳軍医監とパリを訪れた際には、林の墓も訪れているが、この時は通訳が同行していた。