2013年に当時の安倍総理が打ち上げたスーパーグローバル大学構想では、2023年にトップ100大学に10以上の日本の大学をランク・インさせるという政策として注目されたが、あと1年を残して現状は2大学のみ(東大、京大)で、2013年当時と大きな変化はない(毎日新聞=2022年4月19日)。むしろ論文数などは2013年当時より減少し、各大学のランキングも低下しているとされている。
良質な英文論文を本数多く発表していることは、世界に伍して研究を進める上で非常に有用であると考えられる。日本語だけで通用する研究領域は限られており、世界の他の研究者との意見交換も一定の制約を受けるからである。また、海外の研究者との意見交換は、その後の共同研究などのきっかけを提供するという側面もある。
小職自身は医学部社会医学系部門で1983~2009年にかけて研究を行い、1996~97年には英国ロンドン大学セント・トマス病院公衆衛生医学教室(主任=Peter GJ Burney教授)にも客員研究員として在籍したので、日本の医学研究費と英国のそれの性質の違いを実感した。この構想が出て以降の、日本の医学研究の進捗はどうか? 社会医学系では、主に単年度の研究費が提供され、次年度以降の研究の見通し、支援が得られるのかどうか、不確実なものが多く存在する。研究費の中には、前年から行っていた研究費が翌年3月末に支給され、しかも1年にわたって使用した形の帳簿を要求されるものまであり、研究者によっては、自己資金を仮に当てて明細を調整する必要性が出るものまであるのが実態である。公費が不正経理を指南しているようなものである。
これに対して、私が留学した英国の医学部では、教室員総数が60人を超える大所帯であったが、プロジェクト自体が人件費を認めており、たとえば3年間はその教室での研究、生活が保障される仕組みになっていた。研究の進捗は、教室員が教授に相談するよりも、教授自身が各教室員60人の部屋を回ってアドバイスしていた。
このような彼我の研究費の体制、研究組織の体制を考えると、日本ではそもそも長期追跡研究が持続されにくい条件になっていることがわかる。短期研究で成果を追求しないといけない条件と、一定の期間は研究・生活が保障されている条件では、研究効率に大きな差異が生まれることはむしろ当然の流れではないのか。
スーパーグローバル大学構想自体は、先見性のある取り組みであったと思われるが、何にどれだけ予算を付けるのか、実務面で破綻や齟齬があったと感じる。確かに、旧帝大群のブランドを排する可能性はあるかも知れない。しかし、今年を含めてあと2年でどこまで日本の研究水準が回復するのか予測は困難である。また、日本のように大学入学までに理科離れの受験競争の中で受験生自身が消耗してしまう現状では、医学研究の分野でオリジナルな研究希望者が確実に増加する素地はなく、あったとしても諸外国に比較して劣悪であろうと心配している。