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小林美代子の『繭となった女』─昭和30年代のメニエール病患者[エッセイ]

No.5149 (2022年12月31日発行) P.66

高橋正雄 (筑波大学名誉教授)

登録日: 2022-12-31

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1972(昭和47)年に小林美代子(1917〜1973)が発表した自伝小説『繭となった女』(講談社刊)には、美代子自身を思わせる主人公が終戦後間もない時期、メニエール病を患ったときの様子が描かれている。

1944(昭和19)年から大日本鉱業に速記者として勤めていた主人公は、1954(昭和29)年、37歳になった頃、職場で孤立したこともあって、「戦前、戦争中の、庶民の間の心の流通と信頼が、戦後の人間関係に全くない」と感じるようになる。この時主人公は、「戦後の人間関係に適応できなかった」と感じているのである。

その後、会社では合理化をめぐる労使の団体交渉が行われるが、主人公は速記者として双方の発言を記録しながら、いわゆる社会的弱者を切り捨てて成長してきたわが国の社会風土に思いを馳せて、「働けない者、働く場のない者の不幸は、その者に能力がないため、 自身が招いた結果とし、本人も日本人のあきらめのよさで、運が悪いのだと思い、国も人々も、落伍した者の運命を、能力がないから当然だと、 考えの片隅に片づけてきた」、「日本国は今生産に役立ち、その場を与えられた者たちだけの王国だ」というような今日的な社会批判をする。「日本が後年GNP第二位の経済大国となれたのは、この頃から、生活の場を奪われた者、生産能力のない病人、頭の悪い者、老人、止むなく日雇い労務者に落ちた者、公害病者など、調査すれば何十パーセントかに及ぶ、大多数の者を、裸で放り棄て、その犠牲によって成しとげられたものである」。

労使の交渉は三昼夜ぶっ通しで行われ、4日目の夕方には、「耳鳴りがし、耳に栓がされ、頭に綿がつまったようになり、電車の音や、人声や、足音が遠くに聞こえた」。自宅に着いた時には、「大地が左右に駆け登るように揺れ」、「冷汗の出るむかつきに、体の中が搔き回されてる」ようで、「台風の中で振り回されているように体が回り、家が回った」。

メニエール病と診断された主人公は、東京医科歯科大学の耳鼻科に3カ月入院するが、退院後半年たって会社のトイレを出たところで、「地面が、まわりが、飛ぶように回り柱に抱きついて立ち、吐いていた」。翌日、再入院となり、今度も根治しないまま3カ月で退院するなど、以後、入退院は主人公の行事となった。この頃は、3日に1度、3時間ぐらい回り通すようになり、「外には危なくて一歩も出られず、家では付添婦がついた」。

入院が5回目になる頃から病室が生活の場にな ったが、「めまいは日ごとに凄まじくなり、急回転する円盤に寝かされているようである」。医師は氷水を耳に入れて、めまいを起こす研究を外来で何回もしたものの、「治療する研究はされなかった」というが、この頃の主人公は、「私は苦しい時は、地球の人間全部がメニエール病だといいとまで思う。ころり、ばたりと全部が倒れ、人間が初めからそういうものと決まっていたら、住む社会の構造も、それに合うものになれたろう云々」という思いを持つまでに至っていたのである。

6回目の入院時にはほとんど寝ているようになり、「髪にさわられるとめまいがするので、もつれて異様な臭気を放ち、教授の回診の時はネッカチーフをかぶった」。

こうして発病して2年6カ月が過ぎ、付添婦の日給や薬代で貯金は底をついた。そこでメニエール病の権威とされる東京医科大学の渡辺助教授を紹介してもらったが、「メニエールは文化病で、アメリカで猛烈にふえている」と説明する担当のF医師から、「初期に会社をやめればよかったんだ」と言われた主人公は、「やめては食えなかったんです」と反論した。「退院のたびに出社し、再発をくりかえしていた」主人公はここでも、「貯えがあろうと食えなくなるのは必然的なことで、再就職も年齢的に現職より体力を要するものとなり、勤めつづけられない。そういう者の救済措置は日本にはない」と、わが国における長期療養患者の経済的困窮や再就職に関わる問題を指摘するのである。

1959(昭和34)年に休職期間の3年が切れた。退職金は25万円出たものの、休職期間中支給されていた共済組合からの見舞金の支給は切れた。この時の状況を、主人公は「健康であまり金を必要としない時に金はどんどん入り、病気になり幾ら金があっても足りない時に一銭も入らなくなる。生活費に、医療費に付添婦の金がいる」と嘆き、 「豊かになる者はますます豊かに、貧乏になるものはますます貧乏になるように、日本の国はできている」と結論しているが、これと似た思いは、今日少なからぬ患者や障害者の実感するところであろう。

結局、どんな薬も効かなくなった主人公は、「手術する以外に直す方法がない」と言われ、渡辺助教授も体力のあるうちに切ったほうがいいと勧めたため、片耳の聴力を失う手術を受ける。その結果、「大発作はぴたりとおさまった」が、主人公はもう片方の耳も発病していたため、結婚と就職の禁止を宣告された。

こうして主人公は通算4年、8回の入退院を経て自宅に戻るのだが、主人公に対する近隣住民の態度は微妙に変化していた。主人公は、今後の生活のために、退職金で2階を増築して貸間にする工事をしたことから近隣住民に嫌がらせをされるように感じたのである。嫌がらせは次第にエスカレートし、遂には主人公を殺害しようとする声が聞こえるなど、幻聴や妄想を思わせる症状が出現して、その後の主人公は精神障害者として生きることになるのだが、それについては別稿で述べる。

いずれにせよ、『繭となった女』には、昭和30年代に、心身ともに苛酷な職務を果たす中で、当 時は不治の病と言われたメニエール病を発症し、頻回の入退院を繰り返しながら、最後は手術によ って一応の安定を得るまでの過程が描かれてい る。そこには、激しい発作に悩まされる当事者の姿が描かれているが、特にこの主人公は、自ら治療困難な病を体験する中で、優勝劣敗・競争主義的な社会の中で生きなければならない慢性疾患患者の困難や、わが国の労働者が置かれた厳しい状況など、今日的な問題意識を抱いている。その意味では、この主人公は病の体験を通じて時代に先駆ける問題意識を持つようになったようでもあるし、自分個人の問題を社会化・普遍化して考える能力があったということでもあるが、その先駆的な問題意識をそれ以上深めることは困難になる。新たに発症した統合失調症と思われる病と闘わねばならなくなったからである。

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