先日、朝刊の訃報欄で先生の写真を見て我が眼を疑った。親しかった方々に尋ねても、皆、私と同様であった。数日後判った事は、東京で体調を悪くし、空路帰阪して地元の医療機関へ向かう途中、伊丹空港の駐車場で倒れていたのを発見されたとの事。飛行機到着後40〜50分経っていたらしい。誰方かが近くに居ればとか、東京の医療機関でとか、考えれば考える程、残念至極である。
昨秋には私達のNPO地域医療・介護研究会(LMC)で基調講演をして頂き、その後の懇親会ではワインの薀蓄をお聞きしたところであった。今年お会いしたときもお元気そのもので、未だに信じられない気持ちである。
先生と親しくなったのは、兼松隆之先生が会長を務めた長崎での日本外科学会からである。ずっと前に兄弟子(?)の大阪逓信病院長だった岡村純先生から、優秀な男で次の教授候補と伺ってはいたのだが……。その学会で私は「医療崩壊は学会や病院団体にも責任がある。手術数による手術料の逓減などを認めるのは学会の自殺行為である」と発言。実はその年の診療報酬改定で、食道癌は年間10例以上行わないと3割カットされるという評価になり、私は日本外科学会を脱退した。それに着眼して、私をシンポジストにしてくれたらしい。『大日本帝国の崩壊』という本にその5賦、陸軍の馬鹿、海軍の阿呆、国会のボンクラ、官僚の間抜け、新聞の腰抜けと。医療崩壊も医師会、病院団体、厚生省(当時)と並んで学会もと発言した。それを聴いてくれていた門田先生と意気投合。卒業年度が2年下の昭和45年で、同年の後輩外科医が、自宅が芦屋でゴルフ仲間というので更に親しくなった。
その後、阪大副病院長、がん研有明病院長、日本医学会長や癌団体の役員など要職を歴任したことは、皆様周知の通り。特に日本医学会長は内科系、東大卒、首都圏在任に風穴を開けた(本人も少し自慢していた)。昨年は日本医学会の120周年でもあり、私達の所では、その歴史や日本医師会との関係など詳細に話され、また広島県出身なので原爆や平和教育の話など、参加者の共感を呼ぶ熱のこもったお話であった。翌日の懇親ゴルフは別用で参加出来ず、今になると残念もひとしおである。
医学会を医師会の傘下ではなく学術団体として分離したのは、歴代会長もなかなか出来なかった、先生らしい反骨精神の筋の通る業績である。“へそまがり”と自称していたが、真っ当、真っ直ぐな外科医の鏡と敬愛した。「日本から外科医がいなくなることを憂い行動する会」を再興しようと相談し始めたところでもあった。
心から哀悼の誠を捧げたい。門田先生ゆっくりお休みください。
邉見公雄(全国公私病院連盟会長)[追悼]