わたしには神様がついています。
目の前で人が車にはねられたり、ホームから転げ落ちた老婦人が電車に轢かれたり、はたまた猫が私の車の真後ろでマムシと格闘し相討ちになったりと、「あわや」の場面に遭遇することは多々あれど、わたし自身は怪我ひとつしていません。
そのわたしにも、これだけは持っていないと言えるのがあります。それはくじ運。
ギャンブルには縁がないから、抽選にも応募しなければ、福引ガラポンにも自らは挑戦せず、すべて夫か父に任せています。彼らにはちょっとだけ運があって、夫は先日も商店街の福引で一等賞1万円の球を出したし、コンビニのスピードくじでは飲料水をゲットするし、父もスクラッチくじで食事代(600円のラーメン)がただになっちゃいました。ああ羨ましい。
余勢を駆って夫は○○ジャンボが発売されるやいなや、いそいそと売り場に並びます。
「外れる確率のほうが高いのに、もったいないよ」
「ま、いいじゃない。これは夢なんだから。一等が当たったら100万円くらいはあげるね」
くじ運を上げるにはそれなりの努力も必要なようで、大阪のナントカという一等賞がよく出る売り場まで連れて行かれたこともあります。行ってみて納得しました。窓口がいくつもあり、係員が声を張り上げて景気をあおっています。熊本で見かける、窓が1つだけのささやかな販売所とは、活気も販売数も段違い。購入者の分母が違うのですから、これだけ売れれば誰かが当たる、当然ですね。
夫が購入するのはほとんどが「た」抜きくじ(からくじ)ですが、それでもたまに当たるとニンマリし(せいぜい1万円?それ以上かもしれないが、教えてくれない)、「今度は元を取った」とうれしそうです。察するに、夫の運も1万円どまりなのでしょう。
もしも当たったとして、そのお金は何に使いましょうか。ショーウインドーを眺めては「宝くじを当たったら、これを買いたい」「この車に乗ってみたい」と夢を膨らませているのですが、それだってせいぜい1000万円、多くても1億円までの話。それ以上だと想像もできなくて手に余ります。
作家で大学教授の島田雅彦さんは、かつて「500億円あったらどうする」と学生にアンケートをしたことがあるそうです。一番多かった答えが、貯金。30%の学生がこう答えたので、島田さんはがっかりしました。A評価をもらったのは1人だけ。彼はバイクやらパソコンやら欲しいものの一覧を価格付きで表示し、残りの499億数千万円を寄付すると答えたというのです。
島田さんによれば文学的知性とは500億円の有効な、あるいは馬鹿げた使い道を思いつくということで、自分のカネである必要はありません。文化成熟度は元が取れそうなカネの使い方よりも、どれだけ多様な、風変わりな使い方をしているかに表れるのだというのが島田さんの主張です。
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