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ポンペの『日本滞在見聞記』 [炉辺閑話]

No.4837 (2017年01月07日発行) P.50

中込 治 (長崎大学大学院医歯薬学総合研究科感染免疫学講座 分子疫学分野(衛生学教室)教授)

登録日: 2017-01-02

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ポンペ・ファン・メーデルフォールトは幕末に来日したオランダ人の軍医であり、わが国に西洋医学の礎を築いた。帰国後に記した『日本滞在見聞記』には、医学教育という観点から読むと、弱冠28歳のポンペの使命感、自信、自負と気合が次の3点に凝縮されている。

第一に、系統的な授業科目である。鉱物学や植物学、化学や物理学まで網羅している。広く基礎から教えるという西洋医学の基本思想が感じられる。これは、当時の日本人が想像できる医学とは隔絶していて、なかなか受け入れてもらえず苦慮している。ポンペは、「手術を早く教えてくれ」とか「熱病の患者の治療法だけを知りたい」とか、実地臨床に直結する勉強をしたいという学生の強い要求を強く否定している。発祥をポンペにさかのぼる長崎大学医学部衛生学教室の教授の立場での圧巻は、衛生学が最も不人気であったと嘆き、奮闘するポンペの姿である。

第二に、学生のリクルートが一斉であったわけではないが、学生をコホートとして約5年間にわたって教育し、この1クールを終えて帰国している。つまり、一連の医学教育を授けるのに現在とほぼ同等の時間をかけていたことになる。この総時間の一致は偶然のことかもしれないが、医師を養成するのに必要な最小限の時間数を示しているようで興味深い。

第三に、きわめつけは厳格な成績評価である。卒業証書を出した61名に、3段階の厳格な成績評価をした。第1級22名。第2級16名。第3級23名。第3級は、授業は受けたが成果不十分で、自ら医療を行うには不十分と評価されたもの、つまり、卒業認定されなかった学生が実に1/3である。ポンペは、途中で除籍処分にした学生に恨まれ、彼らが庶民を扇動し、生命の危険を感じる出来事に遭遇したことを記している。この卒業認定の結果が諸藩から選りすぐられて学びにきたエリートにとって持つ意味をよく理解しており、この卒業認定が並大抵の覚悟でできるものではなかったことがわかる。

ポンペの業績で耳にすることが多いのは、第一点に関するものである。西洋医学の礎ということで、その重要性に異論はないが、第三点について、もっと評価されても然るべきかと思う。

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