英国生活の長かった白洲次郎は『プリンシプルのない日本』という書籍を出版した。言語,宗教,国土の性質に基づくのであろうが,「プリンシプルのない」日本人の行動は世界の基準からは奇異に見える。たとえば,わが国における各種臨床研究のモティべーションは,米英世界からすると理解が難しい。
学生の頃,ミルによる「アングロサクソンの功利主義」を習った。「功利主義」と言っても,彼らが金銭のみを目的に行動するという意味ではない。米英人と付き合うと,彼らの行動が目的に基づいていることを実感する。「アングロサクソンの功利主義」とは,「米英人は無駄なことはしない」ということである。
第二次世界大戦後に英国が管理する収容所での日々を経験した会田雄次は,著書『アーロン収容所』にて,目的が不明確で無駄な行動が多かった大日本帝国と比較して,英国人の行動には無駄がなかったということを指摘している。
このような「目的のない行動をしない」米英の多忙な医師が「臨床研究」を行うときには,明確な目的がある。
功利的に考えて「臨床研究」では,誰がどのようなメリットを得るのだろうか。臨床研究を無限に繰り返して患者集団の平均予後を改善すれば,システムとして世界の患者群もメリットを得る。しかし,近未来において確実にメリットを期待できる主体は製薬企業,医療デバイスメーカーである。
1980年に,当時の厚生大臣が医師会長に宛てた文章において,わが国では医師による薬効薬理に基づいた薬剤選択の自由が重要と認識された。原理を重視する米英では,薬剤の市場規模はその適応症による。それゆえ製薬企業,医療デバイスメーカーには「新薬の認可承認または適応拡大によって販売利益を得たい」という明白なモティベーションがある。認可承認,適応拡大のためには既存薬に対する新薬の有効性,安全性を科学的に証明する必要があるが,現在の「科学」は個別最適化治療を理論化できていない。そのため,臨床試験で患者集団における新薬の有効性,安全性を証明することが,現在の臨床「科学」の方法論である。製薬企業には利潤拡大のためにリスクを負っても臨床試験を行う強いモティベーションがある。
製薬企業は薬剤の専門家集団ではあるが,診療に直接従事するわけではない。臨床試験の実施には,診療に従事する医師の協力が必須である。新薬の認可承認,適応拡大をめざした臨床試験は,厳格な倫理基準と法律に基づいて施行されるが,それでも自らの患者を参加させることに心理的ハードルが高い医師も多い。同じく,患者も臨床試験に組み込まれることに消極的な人が多い。医師,患者が臨床試験に参加することは,メリットがあるかもしれないが,ないかもしれない。
新薬の認可承認,既存薬の適応拡大をめざす臨床試験は,製薬企業にとっては投資(後で何倍にもなって戻ってくるかもしれないし,ゼロになってしまうかもしれない)である。一方,参加する医師や患者に直接的なメリットはないため,投資する企業が医師および患者に経済的メリット(待ち時間の長い病院でのレッドカーペットなどを含む)を提供しなければ,症例の登録は困難である。多くの患者が医療保険に入っておらず,医療費が莫大な米国では,この経済的メリットは患者の臨床試験参加への強いモティべーションとなる。米英の主導する臨床試験では,利害関係者のモティベーションが外部からも理解しやすい。
米英が主導する臨床試験では,現場の臨床医以外にハーバード大学,デューク大学などの有名大学の臨床専門医も寄与している。製薬企業と臨床医の間にはコミュニケーションギャップがあるが,世界に冠たる臨床医学の専門家が臨床試験のプロトコール作成,その結果の解析や公表などに関与していれば,参加する臨床医の安心感も高くなる。製薬企業はこれらの有名大学に多額の経済的インセンティブを供与するが,それにより症例登録が円滑になる価値は大きい。
臨床研究は「科学的」に施行される必要がある。世界の一流大学の専門家は,その「科学」に通暁している。科学の方法には普遍性があり,現在の医学や生物学においては,まず仮説を立て,その仮説を実験により否定/肯定するというのが一般的である。「新薬の有効性,安全性が既存薬と同等である」との仮説を立てて,その仮説を科学的に検証する臨床試験は,製薬企業には当局による認可承認,大学の専門家には質の高い論文という成果をもたらす。米英主導で施行されている臨床試験の多くは,「アングロサクソンの功利主義」という原理で説明できる。
残り4,724文字あります
会員登録頂くことで利用範囲が広がります。 » 会員登録する