東京駅から皇居に通じる行幸通りの一本南、丸ビルの駐車場口の脇に、逆巻く波にもまれて今にも難破しそうな帆船のブロンズ・モニュメントがある。関ヶ原の戦いの半年前に日本に漂着したオランダ船「リーフデ号」だ。
乗組員だったヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインは、ウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに徳川家康の通訳・外交顧問となり、この辺りに屋敷を与えられた。ヤン・ヨーステンがなまって「八重洲」と呼ばれた地域は、本来は現在の丸の内地区の中にあり、そこに日本とオランダの交流を記念してリーフデ号のモニュメントが設置されたのである。
1598年6月、リーフデ号を含む5隻の船団が、東南アジアとの交易をめざしてオランダのロッテルダムを出航した。ところが、大西洋の真ん中で凪が起こって船足は鈍くなり、南米大陸南端のマゼラン海峡に達するまで10カ月もかかってしまった。さらに船団はバラバラとなり、リーフデ号のみが慶長5年3月16日(1600年4月19日)にやっと豊後、現在の大分県臼杵市に漂着した。太平洋を横断してやってきたのであるが、110人いた乗組員は24人に減っており、翌日には3人が、数日のうちにさらに3人が亡くなった。幸い、残りの人たちは土地の人々の介抱を受け、新鮮な食事を摂るうちにすぐに回復した。半年後の関ヶ原の合戦で、彼らは東軍として砲撃をしたという説もあるが、確証はない。
1492年にコロンブスが新世界を発見し、大航海時代が始まった。6年後には、ヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ大陸南端の喜望峰を回ってインドのゴアにまで到達したが、出帆後半年くらいしてから壊血病で亡くなる水夫が出はじめ、180人の乗組員のうち100人がこれで命を落としたという。生気がなくなって頭の働きが鈍り、歯茎は腫れ上がって出血して歯がぐらつき、青白くなって皮膚には紫斑(出血斑)が出て、ついには死んでしまう病気である。出航後やや経ってから症状が出はじめ、上陸地で水夫たちが新鮮な食物をむさぼり食べると回復したという。しかし、長期間の無寄港航海や、水兵の脱走や熱病を怖れて上陸制限をする軍艦では、壊血病がしばしば猖獗を極め、水夫たちは海の天罰と怖れていた。
リーフデ号の日本漂着はコロンブスの新世界発見から約100年後だったが、さらに150年経っても航海中の壊血病は相変わらず船乗りたちの命取りになっていた。
18世紀のイギリスは海洋国家として発展しつつあったが、断続的にフランスやスペインと戦争を繰り返し、ヨーロッパのみならず、アメリカ大陸やアジアでも覇権を争っていた。1740年、スペインと植民地との交通破壊のために、世界一周の艦隊を派遣したが、4年後に戻ったのはたった1隻のみで、1955人もいた水兵たちは904人に減っていた。かなりが壊血病の犠牲者だったという。
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