生涯を 故郷の凡医 秋うらら
密やかな決意を凡句に託して、開業という未知なる分野に飛び込んで30年、とうとうその日がやってきた。公式な閉院の知らせを出して2カ月、濃密な日々は様々なドラマを生みながら飛ぶように過ぎていった。
今後のことを心配する患者たちは、食欲がなく眠れなくなったと訴え、鬱になりそうだと私にかき口説いた。挙句の果ては、跡を継ぐ男の子を持たなかったから悪いのだと責め、宝くじが当たってもう働く気がしなくなったのだという、面白い推察をする患者もいた。
この間に発行した紹介状は約500通、日常の診療を縫って後事を託する資料をそろえるのは、かなりきつい仕事であった。1日平均10件のためにキーボードを打ち続ける自らの姿を、「東洋のシンドラー」と呼ばれた杉原千畝になぞらえ、折れる心を鼓舞した。久しく来院していない患者も噂を聞いて外来に現れ、最後の月のレセプト件数は1255件に及んだ。一目会ってお礼を言いたいと、贈り物まで持ってくる人たちには、さすがに私の目が潤んだ。
隣の薬局長の頸部への注射が、私の開業医としての最後の仕事となった。開業初日の27人の10倍に相当する患者への治療を終え、私の中では疲れと達成感がないまぜになっていた。引退試合のマウンドにひざまずく広島東洋カープの黒田博樹投手のようにはいかなかったが、感極まりながらもスタッフに精一杯のお礼の言葉を述べた。
妻は、
豊の秋 町医者として 三十年
と詠み労をねぎらってくれた。
予期していたとはいえ、こと開業に関しては、始めるよりも終えるほうが数倍エネルギーを要し、閉院後の煩雑な諸手続きも含めれば何と大変なことか、それが私の実感であった。
郷土の作家藤沢周平は『三屋清左衛門残日録』を書いた。私の「好日録」はまだ序についたばかりである。