1982年、私が自治医科大学から東京大学に教授として戻った際、たまたま母親が腎結石で自治医科大学に入院した。その際、母親が看護師長に「暇だろうから息子さんのことを書いてみては」と言われた。私の母親は筆の立つ人であった。早速、400字詰めで50枚(2万字)に及ぶ長編を書き上げた。私が読んでもなかなか面白く、そのまま放っておいてはもったいないと思い、“Medical Note”の井上 祥氏に話をしたところ、本稿の標題の小冊子をつくってくださった。
その冊子の前半は私の自伝であるが、後半は母の手記となっている。後半の内容を一部ご紹介するが、私は小学校に入った当初、勉強が全然できなかった。1年生のとき、当時修身(現在は道徳)といわれる授業があり、その試験に2月11日は何の日か、という質問があった。当時は紀元節(現在は建国記念の日)と呼ばれていたが、私は「僕の誕生日」(実際、私は2月11日生まれ)と解答したとのことである。早速母が呼び出され、「今まで長年教員をしているが、こんな解答は見たことがない」と言われた、と記されている。
私が4年生になったとき、受け持ちの先生が変わり、母が私のことで相談に行ったところ、「兄があれだけできるのだから、弟もそれほどできないはずはない」と言われた、とのことである。その結果か、4年生のときから成績が良くなり、6年生の2学期には級長を務めた。
その当時、中学受験のためのミニテストが頻繁に行われていた。ある時、そのミニテストの成績が悪く、先生が怒って「もうお前達には教えたくない。級長、謝りに来い」と言われた。そこで、しばらくたって教員室に行ったところ、先生は「お前達なんか教えたくない、皆家に帰れ」と言われた。私は教室にすっ飛んで帰って「先生が帰れと言われたから帰ろう」と言って皆を帰してしまった。その後先生が教室に来られて、誰もいないので憤然とされたようである。翌朝、私は皆の前で怒られた。私が「級長辞職願」を書いて母に持って行ったところ、母は笑って取り合わなかった。
その他、様々のことが書いてあるが、興味のある方は“Medical Note”[https://medicalnote.jp/doctors/161014-001-TM]をご参照されたい。