2016年から2017年にかけて、日本の医学、特に医学教育に大きな影響を与えた阿部正和、永井友二郎、日野原重明、という3名の医師が次々とその生涯を終えた。ともに高齢になるまで精力的な活動を続け、医学界に大きな影響を与え続けてきた彼らの訃報は、それぞれ大きなインパクトをもって伝えられた。
本稿では彼ら3人がどのように医学教育、特にプライマリ・ケアにおける教育へ影響を与えたかについて横断的に記すと同時に、それぞれ別の道を歩んでいた彼らがどのようにお互いが関わってくることになったかについて述べていきたい。まず、彼ら3名の生涯を記し、彼らの足跡を振り返ることから始めることとする。
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▶阿部正和――1918年、東京生まれ。1942年東京慈恵会医科大学卒業後、海軍軍医となる。終戦後、戦前は海軍病院であった国立東京第二病院に内科医として赴任。同病院にてインターンや看護師の教育に尽力。1960年東京慈恵会医科大学生理学教授、1964年同大学第三内科教授を経て同大学附属病院院長、学長、理事長を歴任。糖尿病の病態生理学研究などで活躍するとともに医学教育、医師教育にも尽力。1993年日本医師会最高優功賞受賞。1994年勲二等瑞宝章受章。2016年2月26日、肺炎のため逝去。享年97歳。
▶永井友二郎――1918年、東京生まれ。1942年千葉医科大学卒業後、海軍軍医となる。ミッドウェー、ガダルカナル、マキン・タラワ玉砕戦など数々の歴戦を経て、トラック島大空襲で被弾し帰国を余儀なくされ、内地で終戦を迎える。1957年東京・三鷹で「永井医院」開業。1963年4名の仲間とともに「実地医家のための会」を設立。以来、500回以上にわたり毎月例会を開き研鑽するとともに機関誌「人間の医学」を発行、各所に発信を続けてきた。1985年日本医師会生涯教育制度化検討委員会委員長。1988年日本医師会最高優功賞受賞。2017年5月8日、うっ血性心不全のため自宅で逝去。享年98歳。
▶日野原重明――1911年、山口生まれ。1937年京都帝国大学医学部卒業、1941年聖路加国際病院に内科医員として着任。以降一貫して聖路加国際病院にて勤務。1974年より聖路加看護大学(現・聖路加国際大学)学長、1992年聖路加国際病院院長。戦後、日本に米国医学を導入した第一人者であり、日本の臨床医学、医師教育、看護教育の発展に尽力した。1991年には一般書『生き方上手』がベストセラーになるなど、医学・看護の専門書のみならず、各方面での著書多数。1999年文化功労者、2005年文化勲章受章。2017年7月18日、自宅で逝去。享年105歳。
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3名がたどった足跡は互いに異なるが、彼らがいなければ現在の医学教育の形は同じ形になってはいないと思われるほど、彼らの活動は大きな影響を与えてきた。
阿部は、1987年に最終答申がとりまとめられた文部省により設置された「医学教育改善に関する調査研究協力者会議」において主査をつとめ、中心となって新しい医学教育の形を提示する議論をリードした。この答申では、求められる医師像を「良医」と定め、基礎医学・臨床医学のいずれにおいても、若き医療人たちの育成指針として「良医」を育成するための教育を提供することを提示し、知識伝授型学習からの脱却、倫理観の醸成に資する教育、などを初めて提示した。そのほかこの答申では、入学者選抜方法から医師の生涯教育に至るまで、数多くの画期的な提言がなされている1)。これらの提言は、その後の医師教育の方向性に大きな影響を与え、2000年以降次々と具現化されたコア・カリキュラムの策定、卒後臨床研修必修化、地域医療教育の導入、医学教育の国際化といった、わが国の医学教育制度の大きな変革の原点になったのである。
永井は、彼が「日本医事新報」に投稿した論文をきっかけとして、開業医の自主的な勉強グループである「実地医家のための会」を発足させた2)。彼らは月1回の定期例会を行うたびに、その内容を「日本医事新報」に報告していったが、その報告を誌面で見て賛同した全国の実地医家が次々と参加し、急速に参加者を増やしつつ全国へとその活動の場を広げていった。これらは、やがて1978年の日本プライマリ・ケア学会(現・日本プライマリ・ケア連合学会)の発足へとつながり、以降日本のこの領域を牽引する精神的支柱となった。また永井は、機関誌「人間の医学」や「日本医事新報」などを通じ、実地医家の生涯教育のテーマは、単なる医学的課題にとどまるものではない、と繰り返し発信し、医学と法学、インフォームドコンセント、医療過誤、QOL、ターミナルケアなど様々な分野での研鑽が必要である、との意見を発し続け、わが国の医学教育に不足する一般教育、医学概論の重要性を繰り返し説き続けた。
日野原は、聖路加看護大学の学長として看護学教育の確立からスタートし、患者参加型医療、予防医学、高齢者医療、終末期医療の推進をはじめとした画期的な医療改革に取り組み続けてきた。日本発の独立型ホスピスである「ピースハウス病院」の開設や、内科専門医制度の確立、EBMの推進、小中学生対象の「いのちの授業」、「新老人の会」設立など、提言とともに革新的な事業を実現させてきた。また、日本で初めて公的な文書に「プライマリ・ケア」の文言を記した1973年の厚生省医師研修審議会建議書の作成に委員として関わった。1975年には同審議会の会長としてプライマリ・ケアの定義とともに、初めてその研修の目標および内容を具体的に示した3)。以降も積極的にプライマリ・ケア教育を支援しつづけ、わが国におけるこの領域の第一人者としてこれまで多くの医療人を育ててきた。教育病院として名高い聖路加国際病院で薫陶を受けたもののみならず、日野原の支援を受けて米国において教育を受ける機会を得て、帰国後様々な領域で活躍している医療人は数多い。
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大学病院、開業医、教育病院、と異なるフィールドで活動する彼らは、ともに医学界で耳目を集めるようになる以前から、共通項を持っていた。阿部と永井はともに大学卒業後に海軍軍医となり、江田島の海軍兵学校で終戦を迎えている。また、阿部は東京慈恵会医科大学学長を務めていた1986年、永井との懇談の上、卒前教育としてはわが国で初めて同大学5・6年生の選択実習のひとつとして家庭医実習を導入した4)。
また、阿部は国立東京第二病院に勤務している際に、付属の看護学校における看護教育に携わっており、これらの教材づくりの作業を通じて、同じ看護教育に携わる日野原と親交を深めていた。さらに、阿部と日野原はともに父親がキリスト教の牧師であったという共通項も影響していたのであろうか、その後も折にふれ交流が行われている。
日野原と永井は、ともに医療におけることばやコミュニケーションの重要性を説くとともに、「実地医家のための会」の会員であった鈴木荘一をはじめ5名が1977年、日本人として初めてシシリー・ソンダースが運営する聖クリストファー・ホスピスを訪問したことから、終末期医療への関心を通じてさらにその交流を深めていった5)。
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彼らがそれぞれ親交を深めていったことについては偶然が重なっている。戦時中の紙不足から多くの書籍の出版が困難となり、いくつかの医学出版社は統合された。戦後まもなく、それぞれの地域で活動をしていた医療者が求めたものは、高価な医学書ではなく、手軽に最新の実践的な情報が得られる医学雑誌であった。特に地域のプライマリ・ケアの中核を担っていた保健師・看護師にとっては難解な医学の内容を平易な言葉で、わかりやすく話す講師の人気は高く、これらの講師の活動をまとめた雑誌特集や書籍は、その即時性と簡便性から多くのニーズがあった。そんな中、看護学校での教育に携わっている阿部や日野原らの書籍はとりわけ評判が良かった。そのわかりやすい看護師・保健師向けの臨床の実践書で培ったノウハウは、やがて医学生・若手医師向けの書籍へとつながっていく。教育に携わっている彼らは、大学という教育・研究機関とは別の方向から、医学雑誌を通じた教育ツールの開発に関わっていったのである。
やがて彼らはインターン闘争・大学闘争で疲弊した大学医学部における新たな医学教育の潮流の渦に巻き込まれていくことになった。彼らは決して当初から医学教育の本流、メインストリームにいたわけではなかったが、着実にその足場を医学教育の内部へと確立していった。このようにして、医学教育・看護教育というキーワードでつながったこの3名は相互交流していくとともに、それぞれの所属している主たる領域団体である日本医師会、文部科学省(当時文部省)、厚生労働省(当時厚生省)が行う事業に、それぞれが関わっていくことになったのである。そして、それらの活動はやがて一体となって、新しい医療者教育の道筋を切り開いていった。
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この3名の足跡における共通点をいくつか取り上げたい。1つは、医療における「ことば」と「人間性」の重視である。医療、それは常に患者との対話から始まるが、それは同時に医師と患者の人間的な交流の場であり、科学の発達とともに人間性がややもすると後回しにされがちになっていた近代医学の潮流に抗するかのように、彼ら3人とも医療における「ことば」の重要性について繰り返し述べてきた。阿部はその著書の中で、「医療は言葉で始まり、言葉で終わる」と述べ、永井は医療における「雑談」の重要性について述べ6)、日野原は、ウイリアム・オスラーの著書を翻訳し紹介する中で、医学におけるヒューマニズムの重要性を説いてきた7)。
また、彼らはともに医療における人文・社会学を重視してきた。永井が「人間の医学」第1号の巻頭言に記した「あらためていうまでもなく、実地医家は人間を部分としてでなく全体として、生物としてでなく社会生活をいとなむ人間として、みてゆかなければならない」という言葉に表したように、人間を人間としてとらえるために、法学、人文学をはじめとした数多くの学際的活動をその例会のテーマとして何度も取り上げてきた。日野原もまた、阿部との対談の中で、21世紀の医療に対して阿部から一言述べるよう求められ、次のように答えている。「医学はますます学際的になるだろう、ということですね。それから、患者および家族はもっと医療に参与すべきだということ。共同作業が広くなってくる、ということです」8)。
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相次いでこの世を去ったこの偉大な3名の医師たちの足跡の先に現在があり、彼らがいなければ、われわれの姿は今の形にはなっていなかったであろう。彼らが発したメッセージは、現在よりもはるかに多い制約の中でも、人々の心をとらえ時代を変える力を持ったものであった。それらは人口構造の急速な変化や、情報技術の発達による社会環境の大きな変革の真っただ中にある今だからこそ、さらに価値が高まっているといっても過言ではない。平成という時代が終わろうとする今こそ、彼らが残したこれらのメッセージをしっかりと受け継ぎ、次世代へと伝えていかなければならない。
【文献】
1) 阿部正和, 他:教育の改善に関する調査研究協力者会議最終まとめ. 医学教育. 1987;18(5): 388-424.
[https://doi.org/10.11307/mededjapan1970. 18.388]
2) 永井友次郎:一般医の学会が必要な理由. 医事新報. 1963;2033:67–9.
3) 日野原重明:日本における医師臨床研修のあゆみ. 週刊医学界新聞. 2004年1月5日.
[https://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2004dir/n2566dir/n2566_02.pdf]
4) 鈴木荘一, 他:東京慈恵会医科大学の家庭医実習―その10年の成果. 医学教育. 1996;27(4):253-7.
[https://doi.org/10.11307/mededjapan1970. 27.253]
5) 鈴木荘一:ひとはなぜ、人の死を看とるのか. 人間と歴史社, 2011.
6) 永井友二郎:雑談療法のすすめ. 医事新報. 2003; 4152:41–2.
7) 日野原重明, 他, 訳:平静の心─オスラー博士講演集. 医学書院, 2003.
8) 日野原重明:癒しの技のパフォーマンス. 春秋社, 1997.